黄八丈とは

黄八丈 その1

【黄八丈】呼称の由縁

黄八丈という名称がどのようにして生まれたのか。ここ八丈島では【丹後】としか呼ばれなかった。 「玉勝間」十一 八丈絹、神鳳抄に、
諸国の御厨より大神宮に奉る物の中に八丈絹幾疋ということおほく見えたり、されば此絹いづれの國よりも出し也、伊豆のおきなる八丈が島といふも、むかし此絹を織り出せしより島の名になれるべし、かくて今の世に八丈というはたはかの島より織り出す故に八丈とはいふとみな人思ひためるはまことにさもあらむか。「貞丈雑記」 三 小袖、 八丈絹東鑑ニ見タリ、宇治拾遣ニモ見タリ一疋ノ長サ八丈ヅツニ織リタル絹ノ品有シナルベシ。

このように、昔から八丈、八丈絹、八丈縞、黄八丈、黄八などと呼ばれて来た。 しかし【黄八丈】という名称の発生を考えてみると八丈絹と黄八丈は別物であるということです。
平安後期より南北朝中期あたりまでのものの中に現れる八丈絹は白無地の後染生地か黄色の無地であった筈で、縞や格子は無かったと考えられるからです。
理由は、その当時、染色は黄染だけで、他の樺と黒は江戸時代になる迄出来ていなかったのです。 つまり、一色では無地しか織れません。三色が揃って始めて縞模様が織れるようになり、始めは八丈縞と呼ばれていたものが、特に黄色が印象的であったところから黄八丈縞、次いで【黄八丈】となったと考察されるのです。従って、今の「黄八丈」と呼ばれるようになったのは江戸時代以降になります。
八丈の織物が三色であったとする古い記述は一七一五年発行の「和漢三才図絵」にあります。なぜ八丈島では丹後と呼んだのか。「八丈島記」上に八丈縞といわずして丹後織りという「そのはじめ丹後織りの縞を手本としてをりはじめけるにや」といっているが、柳悦孝氏は、八丈の織物が丹後縞に似ているからとも言っている。
三宅島に三宅丹後があり、利島に黄絹、神津黄紬、小島、青ヶ島にも黄紬が天保年間にあった。
【文: 黄八丈め由工房 当主  山下 誉】

商品:黄八丈および黄八丈民芸品

黄八丈 その2

【八丈島の地機じばたとカッペタ織り】

黄八丈め由工房 当主 山下 誉

人間が生活する上で第一番目に必要な物が着衣である。次に食で住と続く。

日本の織物史を見ると静岡の「登呂の遺跡」から出土した織物が日本最古の織物遺物であろうという。今から約2000年前の弥生時代、麻の様な食物繊維で織った平織り布であった。

世界では1万数千年前、新石器時代の麻織物が最古の織物とされている。たて糸とよこ糸が直角に上下に交わって布を織るという作業は当時から現在まで全く変わることはない。  かつて柳 悦孝先生*1が織物の道に入るきっかけについて「線(糸)が面(布)に変わるこの驚きと感動は、他には無い。」といわれていたことを思い出すが、古代人がこの布を手に入れたときの喜び様は、今の私たちには想像できないことである。さらに先生は、「この世で機織りほど手作りの最たるものは無い。」とも言っていた。
「手作り品といっても大半は他の力に頼るところはあるが織りは手を止めたら一歩も前へ進んではくれない。」まさにその通りである。 現在の機は高機たかはたが主流で、地機じばた*2は高機たかはたより古い織機である。 それより更に古い機織はたおりりが原始機といわれるもので弥生人の織物「登呂の遺跡」、アイヌの「アツシ織り」、八丈島の「カッペタ織り」がこれにあたる。 ただし「カッペタ織り」は原始機とはいってもはるかに高度なもので、機台がないという共通点だけでは語ることができない。地機じばたは韓国から古墳時代に輸入されたという説が有力で、三世紀後半から六世紀までである。地機じばたには斜上型と水平型があり、多くの地機じばたが形を変えていく中で、ここ八丈のものは斜上型で、韓国から最初に来たときの姿を今に伝えている貴重なものである。 岡村吉右衛門氏*3は、「機に掛かるたて糸は滝が流れ落ちるのにも似て、流動的で完成された美しさを持つ機である。」と表現した。数kgの玉石をおさえ棒に吊るす工夫も風合いを生み出す上で大変役立っている。この素晴らしい地機じばたも明治22年、山下与惣右ェ門によって導入された高機たかはたにとって代えられ、今動いているのは一台だけとなった。

*1 柳やなぎ 悦よし孝たか :(故人)黄八丈研究の第一人者
1941~44中国北京中心に厚生産業指導主任技師
1949~ 女子美術大学で教授のち同校学長

*2  地機じはた : 黄八丈め由工房 工芸館に (斜上型) 展示中

*3 岡村おかむら吉きち右う衛門えもん:(故人)
1916年鳥取市生まれの染色工芸家
主な著書に「日本原始織物の研究」「染めもの」等

「黄八丈め由工房」に併設する「黄八丈工芸館」
に展示中の
「日本原始機 カッペタ織」および
「朝鮮流斜上地機」

見学は随時

八丈名産くさや

【その歴史とうまさの秘密

 

伊豆諸島に代々伝わる味といえば、やっぱり「クサヤ」ですね。焼いているときは筆舌には尽し難いよい(?)香りで、なんとも食欲がそそられます。特に時化の多いこの島にはその昔から欠かせない貴重な保存食でした。

クサヤの歴史をたどりますと、古くは室町時代までさかのぼることができますがその詳細は未だ定かではありません。 一説には江戸時代、耕地が少なく漁業で生活をしていた島民は、年貢を塩で納めていました。そのため貴重な塩は節約しなければならず、魚の塩干しを作る塩水を捨てずに、何度も繰り返し使い続けていたそうです。すると魚の蛋白質を源にその塩水の発酵がはじまり、これが代々伝わるクサヤ液になったと言われています。


水揚げされたばかりのムロアジ

では、クサヤの呼び名はいつからか。「江戸時代、日本橋の魚河岸で命名された」説であるとか、「明治時代、焼いた時の匂いが臭いから東京でクサヤと呼ばれはじめた」などの説がありますが、残念ながらその語源につきましてもあまり定かではありません。
いつの時代に生まれ、いつの時代に名付けられたかよくわからないクサヤですが、特徴である腐りにくい性質を島民は経験から得ていました。 クサヤ液中のクサヤ菌にとって、湿度の高い島の気候は繁殖するのに絶好の環境です。そしてこの菌の増殖速度はとてもはやいので、他の腐敗菌を全く寄せ付けない固有の世界を作ることができます。クサヤ菌が発酵をうながしはじめますと魚の蛋白質や脂質が分解されます。その過程で抗菌性物質が生成されますがこの物質には、空気中から入ってくる様々な菌を分解してしまうという性質があります。そのため、これらの抗生物質は特に切り傷などの外傷によく効き、新島では風邪や下痢等の薬としても活用されました。ちなみに気になる臭いの素は、発酵の過程で生成されるアンモニア、硫黄化合物、酪酸などの成分によると考えられています。

クサヤには鮮魚にのった脂肪の旨みと、発酵により作られた蛋白質系の旨みがあります。クサヤ液の中で分解された蛋白質は、グリシン、アラニン、グルタミン酸といった遊離アミノ酸成分となり旨みを増加させます。実はこの旨み成分がクサヤ液の秘密です。
八丈島は伊豆諸島の中でも特に漁場に恵まれた島でした。獲れたばかりのムロアジやトビウオをさばいて内臓をとります。開いた魚は液の浸透をよくするため真水で洗い血抜きを行います。そしてクサヤ液につけ込まれた魚は翌日取り出され、再度水洗い後、真水につけ込みます。真水につけ込むことで八丈島産クサヤ特有の「甘み」が生まれます。さらに乾燥させ干物にするとクサヤの完成です。こうして製造されたクサヤは艶のあるあめ色に干しあがります。

ムロアジの製造・内臓を取り除きます

真水に漬け込む

乾燥して干物に

他の干物に比べても、じつに奥深い味わいは、八丈島近海で漁獲された鮮度のよい魚と湿度の高い島の自然環境に適合したクサヤ菌との融合でできあがりました。  いまだとき明かされていない島特有の旨みの歴史をもつ「クサヤ」、是非一度ご賞味いただき、そしてお土産にされて、お酒のお供に、ご飯のおかずに、お子様のおやつに、八丈島観光の思い出にされては如何でしょうか。

最高級のムロアジのクサヤ
【長田商店々主 長田隆弘さん寄稿】

黄八丈 その3


永鑑帳と御控え織り

黄八丈め由工房 当主 山下 誉

永鑑帳とは江戸時代に年貢として幕府に納める黄八丈の反物五十種類と帯地六種の柄模様布地を貼り、綴じられている見本帳である。年貢は六百三十反余りであった。現存する永鑑帳は二冊だけで、東京駒場日本民藝館に天保十三(1842)年、八丈島歴史民俗資料館に弘化四(1847)年版がそれぞれ一冊ずつある。昭和五年の黄八丈の調査では、さらに三根の高橋家にもあったとされている。元来、各村々にあった筈で日本民藝館のものには末吉村の文字が見える。また、弘化四年版は五年あとの版であるが八丈支庁の物置の瓶の中に差し込んであったものを見つけたものだと荒関*1さんから聞いたことがあるが、それが何物かも分からずに、求められるがまま織り見本として切り与えたらしく残りはわずかになってしまっていた。 昭和四十年代黄八丈の調査に来られた村上道太郎氏*2は、これをスライドにして写してみると実にモダンでコートに仕立てれば、パリでもどこでも着て歩けそうな粋な柄だったといい、「いったいこのような織物を作ったのは誰だったのか」と驚嘆している。

天保十三年版永館帳   弘化四年版永鑑帳

永鑑帳は、当初は御絵本または御縞本といい絵図であったので見本図と布地では齟齬すること多く、役人の迷惑、織女の苦労は129年間に及び、このことに心を痛めていた末吉村地役人浅沼重兵衛直喜によって筬羽おさばの数を一七升   ヨミと定め、名主の岡右ヱ門の妻「お倉」が縞配りを決めたとある。反物はすべて平織で帯地は綾織である。地機じはたでは平織しか織れず、綾物は二人掛りで織ったといい、そのような訳で帯は八反分の価値があるということから「八反」とも呼ばれていた。

永鑑帳が美しいのは二色使いが主で、黄樺黒の三色を使っているのは三反だけである。黒地に黄色、樺地に黄色の組み合わせばかりで黄を地にしたものは一反も無い。柄も縞と格子だけであり、絵模様は無いので「救われている」とは、柳 宗悦*3氏の言葉である。黄八丈の三色は、自然界にもっともありふれていて、あまりに身近であるところから顧みられない色ではあるが、八丈島では、それが究極だったといえる。糸をはじめとして自給自足の結果、生れたのが黄八丈で、この島の自然が与えてくれた織物といえよう。 年貢としての織物の検査は厳しく、この永鑑帳と突合せて間違いが無いか厳しく調べられ、万一失敗があれば織り直しを命ぜられたという。そのために控えの織物を用意したのが「御控え織り」で上納する反物以外は当然余剰品となり、それは村々で買い上げたうえで江戸の呉服商に入札させ、村の歳費にあてたという。この反物が江戸市中に出まわり、黄八丈が広く世に知れ渡るようになった。
【黄八丈め由工房 山下 誉氏 寄稿】

黄八丈め由工房により復刻された平成永鑑帳

注1:荒関哲嗣 昭和2年北海道生 八丈支庁産業課勤務
「黄八丈その歴史と製法」の著者

2:村上道太郎 大正7年高知市生
古代の染色技術研究、万葉染研究所長

3:柳 宗悦 明治22年東京都生
民芸運動創始者 思想家

玉石垣の六方積み

日本中のあちこちにある石垣は、歴史も目的も積み方もさまざまです。

南は珊瑚礁の石を集め風よけのために築く沖縄の石垣や薩摩川内市入来麓の川石を集めて築いた武家屋敷を構成する石垣、また静岡県久能山に代表されるイチゴ生産のための石垣、そして北は「北の国から」黒板五郎が畑の石を拾い集めて建てた「石の家」まで、数々あります。 昔から、身近にあり容易に入手できる「石」を生活目的の材料にしたのでしょう。 ここ八丈島では、大里地区や坂上地区にそれは見事な「玉石垣」があります。 材料の玉石は、海岸から集めてきたものであることが特色で、その外観の見事さ、美しさは、他の石垣にけっして劣ることはありません。そして、そこにも八丈島で培われた伝統の技術が生きているのです。

写真で見るとおり、一つの石の周りを他の六個の石で囲むように整然と組み立てられているのが特徴です。これが他の地域の石垣と違うところで、その形からこの石積み技法は「六方積み」といわれます。 中心にあるひとつの石とこれに接する6つの石同士の相性(大きさや形)が良くなければたちどころに強度に影響して脆弱な崩れやすい石垣になります。したがって、先ず「石同士の相性を見極める目が一番大切」とこの技法を伝承する大興園・菊池國仁氏はいいます。 さらに、石垣裏側には土を盛り、それを棍棒で丁寧につき固め、ぴったり合った石同士をさらに密にして、強度をたかめていきます。

そのようにして先人の作り上げた石垣は、数百年は経過した今なおしっかりとした形で見ることができます。

では、その石は、どこからどのように運んだのでしょうか? 昔の人伝てに聞いた話として、「抱えきれる玉石を目的地に向かいできるだけ運びあげ、力つきるとその場所に捨て置く。 そして、力を回復させながら海岸、あるいは元の場所にもどりまた別の玉石を運び上げる。これを、何人かで、あるいは何回も繰り返してついには、目的地に運び上げた」

大里地区の玉石垣は、横間ヶ浦海岸や前崎浜からこのようにして運んだものです。

よく、この石垣の中にある石を観察すると大小・形も様々です。 容積にして5倍も違うものが使われているそうです。 しかし、「どのような石でも、必ずぴたっと合う場所があり、決して無駄になる石は無い」と國仁さんはいいます。大里の陣屋跡地、大興園の石垣は14~5段の玉石垣、家並みに溶け込む美しさは必見です。 是非じっくりと観察してみてください。

【英生】

黄八丈 その4

「黄八丈 黄染・樺染・黒染」

八丈島の代表的な伝統工芸品として「黄八丈」があります。

遠く室町・北条氏の時代に貢物として海を渡って以来、江戸時代をへて明治にいたるまで、この織物は年貢として納められてきました。その間、独特の色合いや丈夫さが人気を呼び、初めは大名などの限られた階級から、役人・御殿女中、やがて町娘までと広く好まれました。

代表的な黄色を基調とした織物の「黄八きはち」が、黄八丈という名称を生み、島の織物の総称となりましたが、ほかに樺色の「鳶とび八はち」、そして黒色の「黒八くろはち」の織物があります。さて、この黄八丈の特徴は、なんといっても、孫・ひ孫・玄孫の代までも色褪せがない「染」にあります。そして、その独特の色合いは、黄・樺・黒の三色によってかもし出されます。

【黄染】原料は、イネ科一年草の「こぶな草」を用い、秋ぐちに実のでかかったところをみはからい、刈って干しあげ煎じます。この煎汁を「ふし」といい、桶の中に一列にならべた糸拠りの束の上にかけます。これを「ふしつけ」といい一晩ねかしたものを翌朝よく絞り、竿がけにして島の強い天日にあてて幾度もはたきながら干し、夕方にはまた「ふしつけ」を前日と同じように行います。

これを、10~15回するうちに、糸の色は日増しに濃くなり、黄土色になります。

そして、榊と椿の生葉を燃やして得た灰から「灰汁」をつくり、これに糸を浸す(媒染)と目にも鮮やかな黄金色にかわります。これを「灰汁がけ」といい、そのままねかせたあとよく絞り、干しあげます。

【樺染】島に自生するまだみのはぎたての樹皮を原料に、黄染と同じ要領で「ふしつけ」をするのですが、空気に触れさせないようにしながら14~5回行います。その後、かまどの灰から作る「灰汁」をかけ、天日に干し、よくはたき、さらに6~7回ふしつけ、さらに灰汁かけそして4~5回ふしつけと灰汁かけ、2~3回ふしつけ、灰汁かけを行い理想の色が出るまで繰り返します。ちょうど、ヤマモモの実が熟した色が理想の色です。

【黒染】椎の木の仲間、スダジイの樹皮が原料です。枯らしたものを煎じて作った「黒ふし」に15回あまりつけたあと、鉄分を多くふくむ泥水につけ、しばらくねかします。これを「ぬまつけ」といい、その後小川で良くすすぎ、絞って干します。2度目はふしつけを5~6回してぬまつけという作業を、発色を確かめながら繰り返します。

原料や灰汁などの材料も、すべて島に自生するものを使っています。染めの技術は、永く伝えられてきた伝統を忠実に守っています。

絶海の孤島の厳しい自然に生きる生活は、人々におのずと誠実さを身につけさせます。現在の黄八丈製品には、八丈島における人々の誠実な営みのなかで培われた伝統技術が生き続けています。

故 山 下 め 由 氏
東京都無形文化財技術保持者 口述録より

 江戸時代の養蚕技術

「コダイジィ」と呼ばれた菅野八郎
江戸時代の八丈島を経済的に支えた黄八丈の原料はカイコの繭。一九三九年には東京都の蚕糸試験場が置かれ、種繭輸送のため五四年には民間航空路が開設されるなど、六〇年代までは重要な種繭産地だった。蚕や繭の標本、桑を運んだ大きな籠や葉を刻んだマナ板、蚕が繭を作るエイガなど、往時をしのぶ資料を歴史民俗資料館で見ることができる。

八丈島歴史民族資料館

八丈島の養蚕技術革新に大いに貢献した流人の菅野八郎(福島県伊達郡保原町出身)は、万延元年(一八六〇)安政の大獄に連座して八丈島遠島に処せられた。彼は末吉村預かりとなったが、絹織物で暮らしを支えながら遅れた養蚕技術に満足している島人の様子を見かねて、『蚕飼伝法記』を著した。

「我々のような農民は、働かなければ生きていけないし、分相応に世の財を生産しなければ生き甲斐がない。そこで蚕を飼うことを仕事としようと思った。これこそ貴人公卿の膚をも温める品なので、身分の低い者の仕事としては神仏の恵みであろうと、養蚕に真心を尽くし、国地でも失敗することなく細々と渡世してきた。遠流の身となってこの島で暮らしながらも、神仏のご加護を思い、ただ一心に蚕を養う誠意が天に通じたのであろうか、島人はこぞってこの私を『コダイジイ、コダイジイ』と呼んでくれることのうれしさよ。またその上に飼い方の教本を乞う人がいる。私の喜びは限りなく、悪筆不案の恥ずかしさを顧みず、年来の秘術を明らかにし、一小冊子として愚意を残すばかりである。」

と序に記したのは文久三年(一八六三)十一月のことだった。

蚕を育てる棚 エイガの上のマブシの中に繭が見える

繭玉の標本

蚕の餌、桑の葉を集める篭
その横は温度・湿度管理のための火鉢

八郎は、元治元年(一八六四)、朝廷の意向で赦免され島を離れたが、末吉村では八郎の教え通りに養蚕を行ったので「一ヶ年金子一千両余」の利益を上げたという。
【麓】

フルーツのように甘いトマト

キュウリ

甘い甘いプリンスメロン

八丈島の 果物・夏野菜

スイカ・メロン・夏野菜

島においでになった皆様方への質問です。
「八丈島といえば何でしょうか?」

「流人・黄八丈・台風・黒潮・八丈富士・太鼓・玉石垣・明日葉・くさや・・・光るキノコ類・鳥類・シダ植物・・・・」いろいろと答えを思い浮かべますが、実は、夏の果物の代表選手であるスイカやメロンそして以前に紹介したネリ(オクラの仲間)やキュウリ・トマト等の夏野菜がとてもおいしい島です。島外にはほとんど出回らないので、有名ではないかもしれませんが実においしい、知る人ぞ知るそれらの名産地です。

一般にスイカは、一日の昼と夜の温度差がおおきいほどおいしくなるという通説がありますが、ここではそれはあてはまらない。実際、夏の最高温度はなかなか30度以上にはあがりませんし、夜は周りが黒潮で温度は下がりません。では、なぜおいしいのか? それは、

・土壌が火山灰質で、多雨にもかかわらず水はけがとてもよい。

・その土壌には、周りの黒潮からの贈り物、ミネラル類を多量に含む。

・空気がきれいなので、紫外線が強く、これ が果物・野菜を元気に大きくする。そして
・もちろん島の作り手が上手。

これらは、他の夏野菜にもあてはまる、共通のおいしくなる条件です。

島のスイカ・生長中

スイカはあくまで甘く、プリンスメロンなどは、その大きさとバターと蜂蜜を塗ったような、強烈なあまさに驚かれることでしょう。今号が、刊行される頃は、まさに収穫期です。他にもいろいろな種類のメロンや夏野菜がたくさん出まわっているころですので、存分にお試しください。

黒潮の恵みは、ここにもあるのです。そして、元気な食べ物は元気を作ります。
【おいしさにひかれたにわか農夫】

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

© 2020: 八丈島の自然とガイド | GREEN EYE Theme by: D5 Creation | Powered by: WordPress