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三年古酒黄八丈

八丈島の焼酎-効能その3-

焼酎の飲み時とその適量は?

酒は百薬の長 その酒とは本格焼酎か泡盛(乙類)であるということはいまや定説です。

心筋梗塞・脳梗塞などの原因物質である血栓を溶かす酵素「ウロキナーゼ」を増やす働きがあるからです。
しかし、焼酎を何時飲むのが良いのか、またどの程度飲むのが良いかは非常に大切なことです。 飲みすぎはその効果より肝臓に負担をかけて別の病気発症の引き金になったり、おつまみ取りすぎからの栄養過多が他の生活習慣病の原因になるなどの悪い面を誘いますので「百薬の長」にするためには先ず「量」を守ることが大事です。
純粋アルコールにして30~60ml、焼酎一合~二号が適量とされます。

さらに、何時飲むのが良いのか。

血管の詰まる病気は午前2時~5時に発生するケースが多く、特に心筋梗塞は月曜日の朝に発生する事が多いという統計があります。
日曜日の夜からの「明日から、また仕事だ」と言うストレスに原因があるといわれています。したがって、「日曜日の夜(あるいは休息日の最後の日)に本格焼酎を適量ゆったりと晩酌する」ことをお勧めいたします。

焼酎のおいしい飲み方 その1

【6:4のお湯割り】がよいというけどどっちが6? お湯割りは、先に焼酎を器に入れるのか、はたまたお湯が先なのか、そしてどちらが美味しくいただけるのか。

九州薩摩の酒器【黒ぢょか】は、酎飲みの間では知らぬものなし。(筆者も九州在勤時代にこれを得るために一週間薩摩○十のお店に通い、ようやく景品の【黒ぢょか】とぐい呑みを手に入れて今でも宝物:写真)
これに島の湧き水と焼酎を好みの濃さにわり、一晩置くとそれは最高のまろやかさ。  さて、これを昔ながらの火鉢などあれば良いのだが無ければ電気コンロ、ガスコンロのできるだけ弱火にかけ、ぢょかの表面を触って温かくなっていれば飲みごろ。 熱くなりすぎないように注意してください。
ぢょかも時間も無い人は、まず酒器にお湯を適量注ぎこみ、器を温めておいてから好みの焼酎を注ぎ込みます。

そうすると冷たい酎がうまみ成分を逃すことなくうまい具合に底まで混じりあい、美味しくいただけます。
逆に酎がさきでこれに熱い湯だと、酎は熱さに驚き、器は冷たいまま。

お湯割りは、酎が6お湯が4の割合が良いとされますが、人によっては7:3あるいは8:2とさまざま。 それはすきずきと言うことで。

八丈興発 カメセット

麹菌のお話 カビ様さま

この号が刊行されるときは、多分すでに梅雨は明け、からっとした夏の最盛期。

執筆中の今この時期はというと、湿気の多い梅雨真っ只中。 その厭なものの最たるものが「カビ」。 あちこちそこここにカビ。 しかし、このカビの中にはまさに天からのお恵み、左党の皆さまには命の泉をお恵み下さる「カビ」さまもあります。

それは、言わずと知れた「麹菌」。 アルコール発酵は酵母菌が糖分を食べることにより醗酵がすすみます。酵母が糖分を食べやすくするためにこの麹菌が重要な働きをします。

さて、麹菌のうち、一番身近なのが「黄麹菌」醤油・味噌や清酒を造るのにこの麹菌を使います。ここ八丈島の島酒(焼酎)にも、この黄麹を原料に使ったものがあり、おいしい風味を楽しむことができます。

「黒麹菌」は、「泡盛菌」とも言われるように泡盛醸造に使われます。もろみ中の雑菌を殺して香りを良くする効果があり、この菌を利用した数多くの個性の強い酎もうまれています。

「白麹菌」は、黒麹菌の突然変異で生まれたものですが、黒麹と違い汚れが目立たなく扱いやすいので、泡盛以外の本格焼酎の醸造の多くに使われています。

梅雨が明けた後に、ギンギンに冷やした島酒。 その一杯の前に、原料の「麹菌」の種類を確かめてみてください。

あぁ「カビ」さまぁ~! 

焼酎の甲類、乙類って何?

本格焼酎とは?

一口に焼酎といっても、大きく甲類と乙類に分類されます。

甲類は糖蜜やナツメヤシなどを主原料にして、連続式蒸留器を使って繰り返し蒸留するため、原料の風味を損なう代わりにアルコール純度が高まり、ホワイトリカーのように梅酒などの果実酒や、ニンニクなどの薬酒づくりに向く酒となっています。

これに対し乙類は、単式蒸留で1回しか蒸留しないので、芋や麦など原料の風味が残っており、ウロキナーゼ(心筋梗塞・脳梗塞などの原因となる血栓物質を溶かす作用がある)などの酵素を多く含んでいるのが特徴です。

しかし、甲・乙という呼び名は品質に優劣があるかのように感じさせることから、乙類を「本格焼酎」と呼ぶようになっています。

昨今の焼酎人気とともに、呼び名も広く定着してきました。

八丈興発(株)寄稿

ちなみに、八丈島で造られる焼酎は、この「本格焼酎」で、八丈島の「水」もよくなじみ、それぞれの銘柄が風味豊かなすばらしい逸品です。 是非、おためしください。

八丈島の島の八景

大坂夕照

大坂の展望台から沈み行く夕日を見る

□傾いた陽は夕ゆう靄もやのなかでオレンジ色の輝きを増し、空と海が溶けてできた巨大な黄色いスクリーンの真ん中を少しずつ成長しながら静かに落ちていく。金色の分けて漁船の影が一つ、八重根港をめざす。太陽の着水かと思われた瞬間、光が陸に向かって走り、ずんずん水の下に引き込まれる。スクリーンは赤みを増し、右側にどっしりと構えていた小島の黒い影が存在を主張し始める。やがて残照が薄れ夜のとばりに包まれたら、街の灯りに新しい星座を探すのもいい。夜更けて中空の月と銀波の交響に耳を傾けるのもいい。風待ちの船団のイルミネーションに華やかな舞台を想像するのも楽しい。

大坂の展望台から八丈富士・小島を眺る

大坂展望台からの眺望

■大賀郷・為朝神社から横間橋、横間洞門を通り逢坂橋を渡って大坂トンネル入口の展望台まで約一・五?`?bが現在の大坂だが、およそ百年前までは海岸伝いに進んで海寄りの険しい崖をジグザグに登り、為朝が弓矢で開いたという切通しを抜けて往来していた。ここは登龍峠とともに坂上・坂下を結ぶ交通の難所で、汗だくになって登り冷たい汗を背負って下ったのだが、美しい夕焼けに心を奪われ、しばし時の流れを忘れることもあった。


横間ヶ浦海岸から大海に沈む夕日
■八丈島は黒潮によって本土と隔てられていたから、独特の文化が育った。様々な事情で配流された人々がここで出会い、文学サロンを作って風雅に心を遊ばせた。仕掛け人は鹿島則文。鹿島明神大宮司の長子で、罪状は水戸一揆を支援した嫌疑を受けた父の身代わりとも、勤王の志士としての活動をめられたからともいわれる。一八六六年(慶応二)島に来てから、『八丈実記』の著者で在島四十年の近藤富蔵、御船預り役服部敬次郎らと意気投合し、八丈詩会を作って八丈八景を撰定した。 「八景」をめでる風習は室町時代に中国から入った山水画の流行に始まる。以来、近江八景、金沢八景など各地に名所が生まれ、詩画の題材になった。たまたま流刑地で出会った人々が、自らの誇りを取り戻し、生きる支えとするには恰好のテーマであったろう。横間ヶ浦海岸より小島・夕日を眺める八重根港から大坂橋を見る

■夕暮れの海、空、雲、山の魅力は変化の妙だ。「大坂の沖や夕日の小島舟〈菊池武豊〉」――金色に輝く海を小島に帰る弧舟のシルエット。「暮れて行く日あし頼みてとどまればまた影もなき大坂の道〈丹宗秀房〉」――夕日に誘われてもの思いにふけっているうちにすっかり暗くなってしまった。「海に映じて翠大坂の風烟晩涼をす。勝景看生孤島のれ。一半残陽を帯ぶ。〈服部弘道〉」――東山が海にえて、海山の翠が溶け合う。大坂に漂う夕霞は涼しさを運んでくる。こんな素晴らしい景色が孤島の一角で見られるなんて!八丈富士の西側が夕焼けに染まっている……。
「大坂」は「逢坂」に通じる。その昔坂上・坂下の男女がこの辺りで逢う瀬を楽しんだとも伝えられるが、幕末の詩人たちの作品に相聞の歌はなかった。 【麓】

   八重根港越に大坂橋を見る

 

 

前崎晴嵐

朝東風こちにかすむ八重根の浦なぎて松に残れる波の音かな 則文

幾日も続いた冷たい北西風が止んで、おだやかな日差しの中を散策にでた。春である。東山にただよう霞のしたに、八重根の海は波静かで、松の梢を渡る風の音が遠い潮騒のように聞こえるばかりだ――。ひょうたんに似た八丈島の、西側のくびれにあたるところが八重根から前崎、横間につづく海岸である。大里陣屋の前から西に向う道を下っていくと目の前に海が開ける。長く海に突き出した岸壁の辺りが八重根、漁港の入口からつづく玉石の海岸が前崎。帆船が年に二回江戸と八丈島とを結んでいたころは、船着き場としてにぎわったところで、老松が生い茂っていたという。

塙則文(後に鹿島神宮大宮司則文)は、水戸浪士の一揆を応援して罪に問われた父親の身代わりとも、また、自身が熱心な勤皇派だったためともいわれるが、一八六六年(慶応二)八丈島に流罪となった。七〇年(明治二)の赦免までに、八丈詩会を組織して八丈八景を選定し、近藤富蔵のために『八丈実記』の序文を書いた。

夜来の微雨ち晴るるの時
驟暖しゅうだん妍けんを弄ろうして
吟歩遅し

行きて到る前崎春海静かなり     軽波瀲?れんえん頽曦?ひたす

「八景」は元来、十一~二世紀に始まった中国絵画のテーマだから、漢詩にも詠まれた。右の七言絶句は大賀郷宗福寺十八世釈??れい朝ちょうの作である。

 

八重根港から前崎浜

昨夜からの雨はたちまちあがって、にわかに訪れた暖かさの中に花を愛めで、詩を口ずさみながらゆく歩みは進まない。やって来た前崎からながめる春の海は静かだ。さざ波は、連なる先に今にも沈もうとしている太陽を浸している。

前崎浜から大海に沈む夕日を見る 刻々と変わりゆく海と空の風情は、人の心をとらえて、時の流れを忘れさせる。     【麓】

 

 

神湊帰帆

神湊は、ひょうたん型をした八丈島の北東側のくびれにあたり、漁業の拠点となっているが、かつては西風を避ける官船や廻船が入港する北の湊であった。一六三三年(寛永十)江戸から帰る船が雲霧に覆われた島山を前に方角を見失い、乗組員が一心に神に祈ったところ、雲の切れ間から赤い衣の神女が現れたので、これに力を得て島に漕ぎ寄せることができた。その時から神女が立った山を神止山、港を神湊、乗組員は苗字を沖山に改めたと『八丈実記』にある。

八丈富士から見る神湊港 手前が神止山

帆船が年に二回江戸と八丈を結んでいた頃、江戸との往復は文字通り命賭けで、船の入港は島の人々にとって大きな喜びであった。家族が無事に戻ってくる、食料品・日用雑貨など島の生活に欠かせない品々や人々がもたらす情報が皆の楽しみであったし、流人には赦免状が届く期待もあった。そんな気持ちを代弁しているのが宗福寺の住職釈?賜ゥの七言絶句である。

かいもんたずさえて
海門手を携へて帰船を望み 
がき ぼんてん ひらめ
先づ喜ぶ画旗の暮天に閃くを。
い  なか
道ふ莫かれ水程千里遠しと。
ふうはん           かえ
風帆一瞬浪を破つて旋る。

―港のあたりは連れだった島人が江戸から戻る船を眺めながら、まず胸をなで下ろしている。夕暮れの空の下に翻る鮮やかな幟旗を発見したのだ。よかった、よかった。今となっては船旅の長さのことは言うまい。船は帆にいっぱいの風をはらんで、瞬く間に港に入ってきた。―

神港に寄せ来る波の立ち帰る
舟をうれしと言はぬ人なし

鹿島則文

「八丈八景」を選定するなど、島の文学サロンの中心にあった鹿島則文は勤皇思想をとがめられて一八六六年(慶応二)に流罪、明治維新の大赦で帰郷した。

近藤富蔵の「神湊帰帆」図には、倉ノ坂から望む神止山の碑、崖下に漁舟小屋を配した鄙ひなびた漁村の向こう、白帆が浮かぶ彼方の水平線上に、御蔵・三宅の島影が見える。【麓】

現在の神湊港 神止山越しに八丈富士

尾端夜雨

三根の尾端観音堂は正式には遣迎山大悲閣観世音寺といい、流僧顕察が揮毫し近藤富蔵が彫った「遣迎大悲閣」の木額が堂内に掲げられている。島民の信仰厚く、当時は西側の急斜面を田んぼの方から登ったという。今は、神湊へ向かう都道を三根小前の信号の約百?b手前で右折、尾崎橋を渡って急な坂を十分ほど登る。堂の創建は不明だが、富蔵時代の建物が一九七五年(昭和五〇)十月の台風で壊れ、その後現在のものが建てられた。

           三根・尾端 観音堂
 八丈八景では「夜雨」が主題になっているが、あわせて老松をを詠んだものが多い。鬱蒼たる松が観音霊場にふさわしい幽粋な風情をつし出していたのだろう。

           高橋為質の和歌

峯は尾端をかこみ 雲自ずから軽し
翠焔深き処余清有り
しょう条として一夜聞くを得難し
半ば松声に似て半ば雨声
(三原山の峯々が尾端観音堂を取り囲み、ふんわりと雲が浮かんでいる。辺りにかかる青いはいかにも清々しい。尾端の夜雨の風情は格別といわれているが、終夜雨音らしい物音は聞こえない。じっと耳を澄ますとかすかな音が聞こえるけれど、あれは松風の音なのか、夜の雨音なのか)作者の服部弘道は末吉長戸路家から養子に入った御船預かり役で、明治五年(一八七二)の学制施行に際しては、八丈島五邑学区取締に就任した。   観音堂の一帯をといった。明治十三年(一八八〇)になって赦免された近藤富蔵は、いったん島を離れたが、父の墓参と熊野詣での旅を終えて帰島、晩年を堂守として過ごした。「鴫山や松より松を吹く風に小雨音添ふ夜半の淋しさ」(富蔵)鍋島直興の書を近藤富蔵が彫った観自在 「幾夜降る尾端の雨や」『やたけの寝覚め草』を遺した帰山は、父の討った勢いでその息子までめたため流罪となったのだが、降り止まぬ雨夜の闇の中に我が身の無明を見つめていたのかも知れない。                               【麓】

カフェ&バー るん
藍ヶ江落雁

中之郷藍ヶ江は、三原山の溶岩が海岸に及んだところで、八重根・神湊と並んで良港とされた。一八三六(天保七)年、地役人兼御船預り山下平治平為民が廻船の港として開港、一八四四(天保一五)年に幕府から三五七両を借りて改修した。透きとおった水の青さは藍ヶ江の名にふさわしく、「藍ヶ江落雁」として八丈八景に選ばれた。

天然の良港 藍ヶ江 雁(カリ・カリガネとも)は、カモ目の鳥のうち大形の水鳥マガン・ヒシクイなどの総称。隊列を組んで飛ぶ姿から「雁行」「雁陣」などの語がある。北半球北部で繁殖し、日本には冬鳥として飛来する。魂を運ぶ者として、また「雁が音」は遠来の客の訪れのしるしとして古くから歌に詠まれてきた。

藍ヶ江の磯辺に落つる雁がねは
などて都を捨てて来ぬらん
飯島忠亨

 飯島忠亨は、酒席での殺人で流罪になったが、流僧良善の導きで念仏門に入った。文武にで、大賀郷の書記に取り立てられたが、医術で生計を立てたという。八丈までやって来た雁の姿に、江戸を追われた我が身の上を重ねたのだろうか。

  藍ヶ江や田面に落つる雁の文

帰山

あの山越しに落雁を

藍ヶ江の北に続く台地は、かつて島第一の水田地帯であった。刈り入れの済んだ田に下り立った雁は、故郷からの便りを運んできたのだ。作者は『やたけの寝覚め草』の著作がある鶴窓帰山こと山口五郎左衛門。謀殺された父の仇討ちで八丈島流罪となった。

  月は照る
雁行影窓に入る簾を捲いて望見す
藍ヶ江に落つるを

 秋宵又是千金の値
為に愛す風光暁?スに到る

 月明かりに雁の列をなして飛ぶ姿が窓に映る/簾を巻揚げて遠く藍ヶ江に下りる雁を望み見る/春宵一刻値千金というが、秋の夜もまた千金の値がある/だからこの風景が好きだ。眺め入っている間に灯火も明け方の光に薄れていく

 七言絶句の作者?賜ゥは宗福寺十八世宗哲。俗名は源為興、為朝の末裔という。

  「八景」は中国湖南省の瀟湘八景にならって特定の地域の景勝地八カ所を選んだもの。近江八景、金沢八景が有名だが、江戸時代末期に流人と島のインテリがこれにならって八丈八景を選定し、詩歌俳諧の題材とした。                          【麓】

     今では足湯に浸かりながら落雁を

西山暮雪

冷たい西風が弱まり、雲間を漏れる光が力強さを増してくると、そろそろ季節が動く。が、一足飛びに春の到来というわけにはいかない。伊豆諸島の南を低気圧が通過するとき、寒気が本州の南岸までおりていると、南の島にも雪が降る。八丈島測候所が観測を始めた一九〇七年以降、二?a以上の積雪を観測したのは十回。今は車社会だし、露地栽培の観葉植物の凍害もあって、ただ珍しがってはいられないが、雪は古来より文芸のテーマだった。

西山は、形が富士山に似ているので「八丈富士」と呼ばれる。海抜八五四?bは伊豆諸島の最高峰。慶長一〇年(一六〇五)の噴火で、三根の田畑・家屋に被害があったことが記録に見える。

「西山の峯にはわけて夕暮れの入り日の影ににほふ白雪/釈俊童」

雪を降らせた嵐が去って、明るんできた西空の光を映す八丈富士である。

「峯に尾に雪降り暮れし西山の麓に残る松の群立ち/釈堯海」

雪の山麓に取り残された松の木立が淋しそう。

「西の山野飼ひの牛の跡たへて家路やいづれ雪の夕ぐれ/塙則文」

薄暮の山道は牛の踏み跡も雪に覆われて、帰路を見失いそうだ。則文は、水戸一揆に荷担した父の鹿島大明神宮司大隅守則孝の身代わりで流罪になったという。「八丈八景」を選定した、八丈詩会の主宰者。望郷の思いを率直に歌った作品もある。

 

 

「富士の嶺にまがへる山の雪見れば思ひぞつもる夕ぐれの空/飯嶌忠亨」

作者は隠居の身になってから酒興で人を殺めたために遠島に処せられた。来島後一念発起、念仏門に入った。書・剣・槍・柔・拳の達人で、在島中は大賀郷村書記を務め、医術で生計を立てたという。

 「西山座して見る草庵の中/白雪翩翩暮空に飄る/猶愛す寒光沈酔の後/瑶池一曲興何ぞ窮まらん/釈喝三」

八丈学の提唱者葛西重雄氏は七五調のリズムに乗せてこんな風に訳した。
「草ぶき屋根の居ながらに、西山見ればひらひらと、雪飄る暮れの空、雪見の酒も快く、雪を肴に酔いしれて、胸に奏でるセレナーデ。」(『註解八丈遺文』)。
喝三こと祖要は会津の出身で、芝の臨済宗東禅寺役僧。天保二年(一八三一)年に遠島になり、明治維新で赦免されたが島に残り、明治二二年(一八八九)年に没した。

「一景は西山にあり雪の朝/柳和」 「八景」としては「暮雪」を詠まねばならぬのだが、実景としては夜来の嵐が去った翌朝の、日を受けて輝く八丈富士がすばらしい。(藤九郎)

八丈富士鉢巻道路冠

大里晩鐘

微妙に形の異なる丸石を巧みに積み重ねた玉石垣は、その陰影に富んだ風情を愛でに訪れる人が多い。
歴史民俗資料館から大里に続く旧道の途中に「大里晩鐘」の解説があって蜂須賀文敏の短歌

「夕暮れの秋のあはれに添ひてまた入相告ぐる大里の鐘」

が紹介されている。「秋の夕暮れ」はしみじみとした情緒を呼び起こすものとして古来名歌が多いが、流刑地で思う「あはれ」は(ひとしお)であったろう。
作者は天保十四年(一八四三)五月に流され、明治二年(一八六九)五月赦免になった上州・上中居村無宿・寅蔵。博えきの科(とが)で送られたのだが、一我の号で八丈島詩会に参加した。
在島二十七年、島に初めて暦算の法を伝えた人物としても名を残した。

現在の大里は、陣屋跡、優婆夷宝明神社、玉石垣が残るばかりだが、かつては宗福寺・長楽寺の二寺があって、島の政治文化の中心地だった。「大里晩鐘」は当時の面影を偲ぶよすがとなった。

「白露秋光大里の郷  西風檻に入つて桂花香し  鐘声吹き送る斜陽の後 玉笛家を離れて一に断腸」

―秋の日に露のまぶしい大里のあたりをゆけば、西からの風が欄干を越えて香しい木犀の香りを運んでくる。日が暮れると入相の鐘の音が響き、どこからともなく聞こえてくる美しい笛の音が、遠く家を離れて異境にある身には、まったくはらわたのちぎれるほど悲しく心にしみるのだ。

―作者釈喝三こと祖要は、江戸・芝・臨済宗東禅寺の役僧だったが天保二年(一八三一)流罪。大賀郷村書記、宗福寺執事などを務めるかたわら、『野吟荒集』『八丈地名旧跡名所集』を著した。明治元年赦免になるも島に残り、明治二十二年(一八八九)五月に没した。

       大里玉石垣越しに八丈小島「大里の鐘身にむや夕あらし 帰山」季節の変わり目に、しばしば天候が急変する。雨交じりの風は強さを増し、南原千畳岩の海岸に大きな波が打ち寄せている。何となく胸騒ぎがする光景だが、いつものように入相の鐘を聞くと心が落ち着く。

――鶴窓帰山こと山口五郎左衛門は、伊豆君沢郡小坂村の出身で『やたけの寝覚草』の作者。父の仇討ちが咎められ天保十年(一八三九)九月に流され、明治元年に赦免となった。

西に小島を望む小径に夕闇が迫る。ひとしきりにぎやかだった小鳥たちのさえずりが静まると、遠い潮騒に混じって入相の鐘が聞こえたような気がした。(麓)

【参考】
近藤富蔵『八丈実記』第二巻(緑地社)
葛西重雄『註解八丈遺文』(東京都教育庁八丈出張所)
吉田貫三・葛西重雄『八丈島流人銘々伝』(第一書房)

 

名古秋月

「月」は昔から詩歌に詠まれてきた。「八景」の中でも中国は湖、近江は寺の秋の月が、「八丈八景」では「名古秋月」として末吉・の月が賞された。名古は洞輪沢一帯のことで、断崖の途中から流れ落ちる滝と、ひなびた入江の風情が詩人の心を引きつけた。現在は漁港を中心に温泉やサーフィンを楽しむ人々が集まる。

「滝水のの流れの末の洞輪沢
かげさへ高き秋の夜の月 飯島忠亨」

作者は文武兼ね備えたインテリだったが、酒の勢いで人をめ、弘化四年(一八四七)流罪になった。二十年に及ぶ島の暮らしの中で出会った八丈詩会は、どれほど彼の心を慰めたことであろう。

江戸深川、臨済宗の僧は天保九年(一八三八)に流罪。それから二十八年後に来た鹿島則文提唱の八丈八景は、流僧の創作意欲を大いに刺激したに違いない。

「瀑布 岩をくだき山更に幽たり。疎きょう薄暮林丘に到る。 じょうがの冷影円円の鏡。 遙かに憶ふ洞庭赤壁の秋。」

滝が岩を砕かんばかりに流れ落ちるさまは、深山幽谷の趣だ。杖を頼りに暮れてゆく丘に登れば、美人が住むという月は冷たい光を放ち、まんまるの鏡のよう。
唐の杜甫・李白が詠じた洞庭湖、北宋の蘇軾が遊んだ赤壁の秋色もこのようなものだったのではなかろうか。

――月に光る水面が大空と解け合い、兵どもの夢を飲み込んだ故地の風情は、生きることの意味を問わずにはおかない。洞庭湖のほとりに戦火を避け、老いと病に苦しみながら家族の便りを待つ杜甫。赤壁の地で羽化登仙の境地を歌いつつ、表面は絶えず変化しながら本質は変わらない水と月の姿に宇宙の真理を見た蘇軾。戒を破って島流しとなった作者は、先人の境地に自らを重ねてわずかの安らぎを得ようとしたのだろうか。

服部弘道は御船預かりの一人で、幕末から明治にかけて島の近代化に貢献した有力者。「海雲飛び尽して露華浮かぶ。風は送る金波、万里流る。瀑布千尋、洞沢に懸かる。天開いて明鏡一輪の秋。」

海に懸かった雲が消え、露に濡れた花が浮かんでいるようだ。風に吹かれて遙か遠くから金波銀波が運ばれてくるように見える。洞輪沢の崖には千尋の滝が懸かり、空はどこまでも澄み渡って一輪の明月が天下の秋を謳歌している――
と名古秋月の美しさを称えている。

秋の陽を浴びて洞輪沢を見下ろす崖の上に立てば、右手に伸びる小岩戸ヶ鼻の彼方に青ヶ島が浮かぶ。
崖の下には六十余年前出撃に備えた震洋特別攻撃隊の三層の壕が静かに眠る。

「秋ふけて人め枯れゆく名古の浦月よりほかに訪ふ人もなし 近藤守真」

みはらしの湯に身を横たえ、秋の月を眺めるのも一興かもしれない。
【麓】

* 「八丈八景」は、流人鹿島則文が中国の瀟湘八景、日本の近江八景などにならい、八丈島の詩歌・絵画の題材として選定した。島の文化人や流人が集い、これをテーマに漢詩・和歌・発句を詠んだ。

島酒のおいしい飲み方 その2

八丈島の島酒は、おいしい! これはいまや定説です。 そして、今号まで幾とおりかの島酒のおいしい飲み方・楽しみかたを紹介してまいりましたが、今回は、さらに健康に良く美肌効果抜群の八丈島流を紹介しましょう。

遠く紀元前200年、秦の方術士「徐福」は、不老不死の仙薬をもとめて東方に旅立ち、ついにここ八丈島でその仙薬・明日葉をみつけたという説があります(Vol.7に詳細)。 真偽はともかく、この明日葉にはカルコンというポリフェノールが多量に含まれており、健康や美肌・若返り効果に良いことは島人で実証済みです。そしてこの栄養素は、明日葉の樹液・黄色いネバネバに多量に含まれています。

八丈興発(株)

明日葉は、茹でてから、いろいろな調理法でおいしくいただきますが、その茹で汁を捨てていませんか?  実はこの栄養素は水溶性でその茹で汁にも多量に溶け出して含まれているので、これを冷蔵庫で冷やして島酒の割り水に、あるいは、それをそのまま氷にしてオンザロックで、これが八丈島流。 一度試してみてください。 その抜群のすっきり感に目をみはることでしょう! もちろん、そのままのソフトドリンクでもOKで、びっくりするほどのさわやかさですよ。

おいしく飲めて良質の栄養素補給、まさに理想の飲み方のお勧めです。    【Dr.K

黄八丈とは

黄八丈 その1

【黄八丈】呼称の由縁

黄八丈という名称がどのようにして生まれたのか。ここ八丈島では【丹後】としか呼ばれなかった。 「玉勝間」十一 八丈絹、神鳳抄に、
諸国の御厨より大神宮に奉る物の中に八丈絹幾疋ということおほく見えたり、されば此絹いづれの國よりも出し也、伊豆のおきなる八丈が島といふも、むかし此絹を織り出せしより島の名になれるべし、かくて今の世に八丈というはたはかの島より織り出す故に八丈とはいふとみな人思ひためるはまことにさもあらむか。「貞丈雑記」 三 小袖、 八丈絹東鑑ニ見タリ、宇治拾遣ニモ見タリ一疋ノ長サ八丈ヅツニ織リタル絹ノ品有シナルベシ。

このように、昔から八丈、八丈絹、八丈縞、黄八丈、黄八などと呼ばれて来た。 しかし【黄八丈】という名称の発生を考えてみると八丈絹と黄八丈は別物であるということです。
平安後期より南北朝中期あたりまでのものの中に現れる八丈絹は白無地の後染生地か黄色の無地であった筈で、縞や格子は無かったと考えられるからです。
理由は、その当時、染色は黄染だけで、他の樺と黒は江戸時代になる迄出来ていなかったのです。 つまり、一色では無地しか織れません。三色が揃って始めて縞模様が織れるようになり、始めは八丈縞と呼ばれていたものが、特に黄色が印象的であったところから黄八丈縞、次いで【黄八丈】となったと考察されるのです。従って、今の「黄八丈」と呼ばれるようになったのは江戸時代以降になります。
八丈の織物が三色であったとする古い記述は一七一五年発行の「和漢三才図絵」にあります。なぜ八丈島では丹後と呼んだのか。「八丈島記」上に八丈縞といわずして丹後織りという「そのはじめ丹後織りの縞を手本としてをりはじめけるにや」といっているが、柳悦孝氏は、八丈の織物が丹後縞に似ているからとも言っている。
三宅島に三宅丹後があり、利島に黄絹、神津黄紬、小島、青ヶ島にも黄紬が天保年間にあった。
【文: 黄八丈め由工房 当主  山下 誉】

商品:黄八丈および黄八丈民芸品

黄八丈 その2

【八丈島の地機じばたとカッペタ織り】

黄八丈め由工房 当主 山下 誉

人間が生活する上で第一番目に必要な物が着衣である。次に食で住と続く。

日本の織物史を見ると静岡の「登呂の遺跡」から出土した織物が日本最古の織物遺物であろうという。今から約2000年前の弥生時代、麻の様な食物繊維で織った平織り布であった。

世界では1万数千年前、新石器時代の麻織物が最古の織物とされている。たて糸とよこ糸が直角に上下に交わって布を織るという作業は当時から現在まで全く変わることはない。  かつて柳 悦孝先生*1が織物の道に入るきっかけについて「線(糸)が面(布)に変わるこの驚きと感動は、他には無い。」といわれていたことを思い出すが、古代人がこの布を手に入れたときの喜び様は、今の私たちには想像できないことである。さらに先生は、「この世で機織りほど手作りの最たるものは無い。」とも言っていた。
「手作り品といっても大半は他の力に頼るところはあるが織りは手を止めたら一歩も前へ進んではくれない。」まさにその通りである。 現在の機は高機たかはたが主流で、地機じばた*2は高機たかはたより古い織機である。 それより更に古い機織はたおりりが原始機といわれるもので弥生人の織物「登呂の遺跡」、アイヌの「アツシ織り」、八丈島の「カッペタ織り」がこれにあたる。 ただし「カッペタ織り」は原始機とはいってもはるかに高度なもので、機台がないという共通点だけでは語ることができない。地機じばたは韓国から古墳時代に輸入されたという説が有力で、三世紀後半から六世紀までである。地機じばたには斜上型と水平型があり、多くの地機じばたが形を変えていく中で、ここ八丈のものは斜上型で、韓国から最初に来たときの姿を今に伝えている貴重なものである。 岡村吉右衛門氏*3は、「機に掛かるたて糸は滝が流れ落ちるのにも似て、流動的で完成された美しさを持つ機である。」と表現した。数kgの玉石をおさえ棒に吊るす工夫も風合いを生み出す上で大変役立っている。この素晴らしい地機じばたも明治22年、山下与惣右ェ門によって導入された高機たかはたにとって代えられ、今動いているのは一台だけとなった。

*1 柳やなぎ 悦よし孝たか :(故人)黄八丈研究の第一人者
1941~44中国北京中心に厚生産業指導主任技師
1949~ 女子美術大学で教授のち同校学長

*2  地機じはた : 黄八丈め由工房 工芸館に (斜上型) 展示中

*3 岡村おかむら吉きち右う衛門えもん:(故人)
1916年鳥取市生まれの染色工芸家
主な著書に「日本原始織物の研究」「染めもの」等

「黄八丈め由工房」に併設する「黄八丈工芸館」
に展示中の
「日本原始機 カッペタ織」および
「朝鮮流斜上地機」

見学は随時

八丈名産くさや

【その歴史とうまさの秘密

 

伊豆諸島に代々伝わる味といえば、やっぱり「クサヤ」ですね。焼いているときは筆舌には尽し難いよい(?)香りで、なんとも食欲がそそられます。特に時化の多いこの島にはその昔から欠かせない貴重な保存食でした。

クサヤの歴史をたどりますと、古くは室町時代までさかのぼることができますがその詳細は未だ定かではありません。 一説には江戸時代、耕地が少なく漁業で生活をしていた島民は、年貢を塩で納めていました。そのため貴重な塩は節約しなければならず、魚の塩干しを作る塩水を捨てずに、何度も繰り返し使い続けていたそうです。すると魚の蛋白質を源にその塩水の発酵がはじまり、これが代々伝わるクサヤ液になったと言われています。


水揚げされたばかりのムロアジ

では、クサヤの呼び名はいつからか。「江戸時代、日本橋の魚河岸で命名された」説であるとか、「明治時代、焼いた時の匂いが臭いから東京でクサヤと呼ばれはじめた」などの説がありますが、残念ながらその語源につきましてもあまり定かではありません。
いつの時代に生まれ、いつの時代に名付けられたかよくわからないクサヤですが、特徴である腐りにくい性質を島民は経験から得ていました。 クサヤ液中のクサヤ菌にとって、湿度の高い島の気候は繁殖するのに絶好の環境です。そしてこの菌の増殖速度はとてもはやいので、他の腐敗菌を全く寄せ付けない固有の世界を作ることができます。クサヤ菌が発酵をうながしはじめますと魚の蛋白質や脂質が分解されます。その過程で抗菌性物質が生成されますがこの物質には、空気中から入ってくる様々な菌を分解してしまうという性質があります。そのため、これらの抗生物質は特に切り傷などの外傷によく効き、新島では風邪や下痢等の薬としても活用されました。ちなみに気になる臭いの素は、発酵の過程で生成されるアンモニア、硫黄化合物、酪酸などの成分によると考えられています。

クサヤには鮮魚にのった脂肪の旨みと、発酵により作られた蛋白質系の旨みがあります。クサヤ液の中で分解された蛋白質は、グリシン、アラニン、グルタミン酸といった遊離アミノ酸成分となり旨みを増加させます。実はこの旨み成分がクサヤ液の秘密です。
八丈島は伊豆諸島の中でも特に漁場に恵まれた島でした。獲れたばかりのムロアジやトビウオをさばいて内臓をとります。開いた魚は液の浸透をよくするため真水で洗い血抜きを行います。そしてクサヤ液につけ込まれた魚は翌日取り出され、再度水洗い後、真水につけ込みます。真水につけ込むことで八丈島産クサヤ特有の「甘み」が生まれます。さらに乾燥させ干物にするとクサヤの完成です。こうして製造されたクサヤは艶のあるあめ色に干しあがります。

ムロアジの製造・内臓を取り除きます

真水に漬け込む

乾燥して干物に

他の干物に比べても、じつに奥深い味わいは、八丈島近海で漁獲された鮮度のよい魚と湿度の高い島の自然環境に適合したクサヤ菌との融合でできあがりました。  いまだとき明かされていない島特有の旨みの歴史をもつ「クサヤ」、是非一度ご賞味いただき、そしてお土産にされて、お酒のお供に、ご飯のおかずに、お子様のおやつに、八丈島観光の思い出にされては如何でしょうか。

最高級のムロアジのクサヤ
【長田商店々主 長田隆弘さん寄稿】

黄八丈 その3


永鑑帳と御控え織り

黄八丈め由工房 当主 山下 誉

永鑑帳とは江戸時代に年貢として幕府に納める黄八丈の反物五十種類と帯地六種の柄模様布地を貼り、綴じられている見本帳である。年貢は六百三十反余りであった。現存する永鑑帳は二冊だけで、東京駒場日本民藝館に天保十三(1842)年、八丈島歴史民俗資料館に弘化四(1847)年版がそれぞれ一冊ずつある。昭和五年の黄八丈の調査では、さらに三根の高橋家にもあったとされている。元来、各村々にあった筈で日本民藝館のものには末吉村の文字が見える。また、弘化四年版は五年あとの版であるが八丈支庁の物置の瓶の中に差し込んであったものを見つけたものだと荒関*1さんから聞いたことがあるが、それが何物かも分からずに、求められるがまま織り見本として切り与えたらしく残りはわずかになってしまっていた。 昭和四十年代黄八丈の調査に来られた村上道太郎氏*2は、これをスライドにして写してみると実にモダンでコートに仕立てれば、パリでもどこでも着て歩けそうな粋な柄だったといい、「いったいこのような織物を作ったのは誰だったのか」と驚嘆している。

天保十三年版永館帳   弘化四年版永鑑帳

永鑑帳は、当初は御絵本または御縞本といい絵図であったので見本図と布地では齟齬すること多く、役人の迷惑、織女の苦労は129年間に及び、このことに心を痛めていた末吉村地役人浅沼重兵衛直喜によって筬羽おさばの数を一七升   ヨミと定め、名主の岡右ヱ門の妻「お倉」が縞配りを決めたとある。反物はすべて平織で帯地は綾織である。地機じはたでは平織しか織れず、綾物は二人掛りで織ったといい、そのような訳で帯は八反分の価値があるということから「八反」とも呼ばれていた。

永鑑帳が美しいのは二色使いが主で、黄樺黒の三色を使っているのは三反だけである。黒地に黄色、樺地に黄色の組み合わせばかりで黄を地にしたものは一反も無い。柄も縞と格子だけであり、絵模様は無いので「救われている」とは、柳 宗悦*3氏の言葉である。黄八丈の三色は、自然界にもっともありふれていて、あまりに身近であるところから顧みられない色ではあるが、八丈島では、それが究極だったといえる。糸をはじめとして自給自足の結果、生れたのが黄八丈で、この島の自然が与えてくれた織物といえよう。 年貢としての織物の検査は厳しく、この永鑑帳と突合せて間違いが無いか厳しく調べられ、万一失敗があれば織り直しを命ぜられたという。そのために控えの織物を用意したのが「御控え織り」で上納する反物以外は当然余剰品となり、それは村々で買い上げたうえで江戸の呉服商に入札させ、村の歳費にあてたという。この反物が江戸市中に出まわり、黄八丈が広く世に知れ渡るようになった。
【黄八丈め由工房 山下 誉氏 寄稿】

黄八丈め由工房により復刻された平成永鑑帳

注1:荒関哲嗣 昭和2年北海道生 八丈支庁産業課勤務
「黄八丈その歴史と製法」の著者

2:村上道太郎 大正7年高知市生
古代の染色技術研究、万葉染研究所長

3:柳 宗悦 明治22年東京都生
民芸運動創始者 思想家

玉石垣の六方積み

日本中のあちこちにある石垣は、歴史も目的も積み方もさまざまです。

南は珊瑚礁の石を集め風よけのために築く沖縄の石垣や薩摩川内市入来麓の川石を集めて築いた武家屋敷を構成する石垣、また静岡県久能山に代表されるイチゴ生産のための石垣、そして北は「北の国から」黒板五郎が畑の石を拾い集めて建てた「石の家」まで、数々あります。 昔から、身近にあり容易に入手できる「石」を生活目的の材料にしたのでしょう。 ここ八丈島では、大里地区や坂上地区にそれは見事な「玉石垣」があります。 材料の玉石は、海岸から集めてきたものであることが特色で、その外観の見事さ、美しさは、他の石垣にけっして劣ることはありません。そして、そこにも八丈島で培われた伝統の技術が生きているのです。

写真で見るとおり、一つの石の周りを他の六個の石で囲むように整然と組み立てられているのが特徴です。これが他の地域の石垣と違うところで、その形からこの石積み技法は「六方積み」といわれます。 中心にあるひとつの石とこれに接する6つの石同士の相性(大きさや形)が良くなければたちどころに強度に影響して脆弱な崩れやすい石垣になります。したがって、先ず「石同士の相性を見極める目が一番大切」とこの技法を伝承する大興園・菊池國仁氏はいいます。 さらに、石垣裏側には土を盛り、それを棍棒で丁寧につき固め、ぴったり合った石同士をさらに密にして、強度をたかめていきます。

そのようにして先人の作り上げた石垣は、数百年は経過した今なおしっかりとした形で見ることができます。

では、その石は、どこからどのように運んだのでしょうか? 昔の人伝てに聞いた話として、「抱えきれる玉石を目的地に向かいできるだけ運びあげ、力つきるとその場所に捨て置く。 そして、力を回復させながら海岸、あるいは元の場所にもどりまた別の玉石を運び上げる。これを、何人かで、あるいは何回も繰り返してついには、目的地に運び上げた」

大里地区の玉石垣は、横間ヶ浦海岸や前崎浜からこのようにして運んだものです。

よく、この石垣の中にある石を観察すると大小・形も様々です。 容積にして5倍も違うものが使われているそうです。 しかし、「どのような石でも、必ずぴたっと合う場所があり、決して無駄になる石は無い」と國仁さんはいいます。大里の陣屋跡地、大興園の石垣は14~5段の玉石垣、家並みに溶け込む美しさは必見です。 是非じっくりと観察してみてください。

【英生】

黄八丈 その4

「黄八丈 黄染・樺染・黒染」

八丈島の代表的な伝統工芸品として「黄八丈」があります。

遠く室町・北条氏の時代に貢物として海を渡って以来、江戸時代をへて明治にいたるまで、この織物は年貢として納められてきました。その間、独特の色合いや丈夫さが人気を呼び、初めは大名などの限られた階級から、役人・御殿女中、やがて町娘までと広く好まれました。

代表的な黄色を基調とした織物の「黄八きはち」が、黄八丈という名称を生み、島の織物の総称となりましたが、ほかに樺色の「鳶とび八はち」、そして黒色の「黒八くろはち」の織物があります。さて、この黄八丈の特徴は、なんといっても、孫・ひ孫・玄孫の代までも色褪せがない「染」にあります。そして、その独特の色合いは、黄・樺・黒の三色によってかもし出されます。

【黄染】原料は、イネ科一年草の「こぶな草」を用い、秋ぐちに実のでかかったところをみはからい、刈って干しあげ煎じます。この煎汁を「ふし」といい、桶の中に一列にならべた糸拠りの束の上にかけます。これを「ふしつけ」といい一晩ねかしたものを翌朝よく絞り、竿がけにして島の強い天日にあてて幾度もはたきながら干し、夕方にはまた「ふしつけ」を前日と同じように行います。

これを、10~15回するうちに、糸の色は日増しに濃くなり、黄土色になります。

そして、榊と椿の生葉を燃やして得た灰から「灰汁」をつくり、これに糸を浸す(媒染)と目にも鮮やかな黄金色にかわります。これを「灰汁がけ」といい、そのままねかせたあとよく絞り、干しあげます。

【樺染】島に自生するまだみのはぎたての樹皮を原料に、黄染と同じ要領で「ふしつけ」をするのですが、空気に触れさせないようにしながら14~5回行います。その後、かまどの灰から作る「灰汁」をかけ、天日に干し、よくはたき、さらに6~7回ふしつけ、さらに灰汁かけそして4~5回ふしつけと灰汁かけ、2~3回ふしつけ、灰汁かけを行い理想の色が出るまで繰り返します。ちょうど、ヤマモモの実が熟した色が理想の色です。

【黒染】椎の木の仲間、スダジイの樹皮が原料です。枯らしたものを煎じて作った「黒ふし」に15回あまりつけたあと、鉄分を多くふくむ泥水につけ、しばらくねかします。これを「ぬまつけ」といい、その後小川で良くすすぎ、絞って干します。2度目はふしつけを5~6回してぬまつけという作業を、発色を確かめながら繰り返します。

原料や灰汁などの材料も、すべて島に自生するものを使っています。染めの技術は、永く伝えられてきた伝統を忠実に守っています。

絶海の孤島の厳しい自然に生きる生活は、人々におのずと誠実さを身につけさせます。現在の黄八丈製品には、八丈島における人々の誠実な営みのなかで培われた伝統技術が生き続けています。

故 山 下 め 由 氏
東京都無形文化財技術保持者 口述録より

 江戸時代の養蚕技術

「コダイジィ」と呼ばれた菅野八郎
江戸時代の八丈島を経済的に支えた黄八丈の原料はカイコの繭。一九三九年には東京都の蚕糸試験場が置かれ、種繭輸送のため五四年には民間航空路が開設されるなど、六〇年代までは重要な種繭産地だった。蚕や繭の標本、桑を運んだ大きな籠や葉を刻んだマナ板、蚕が繭を作るエイガなど、往時をしのぶ資料を歴史民俗資料館で見ることができる。

八丈島歴史民族資料館

八丈島の養蚕技術革新に大いに貢献した流人の菅野八郎(福島県伊達郡保原町出身)は、万延元年(一八六〇)安政の大獄に連座して八丈島遠島に処せられた。彼は末吉村預かりとなったが、絹織物で暮らしを支えながら遅れた養蚕技術に満足している島人の様子を見かねて、『蚕飼伝法記』を著した。

「我々のような農民は、働かなければ生きていけないし、分相応に世の財を生産しなければ生き甲斐がない。そこで蚕を飼うことを仕事としようと思った。これこそ貴人公卿の膚をも温める品なので、身分の低い者の仕事としては神仏の恵みであろうと、養蚕に真心を尽くし、国地でも失敗することなく細々と渡世してきた。遠流の身となってこの島で暮らしながらも、神仏のご加護を思い、ただ一心に蚕を養う誠意が天に通じたのであろうか、島人はこぞってこの私を『コダイジイ、コダイジイ』と呼んでくれることのうれしさよ。またその上に飼い方の教本を乞う人がいる。私の喜びは限りなく、悪筆不案の恥ずかしさを顧みず、年来の秘術を明らかにし、一小冊子として愚意を残すばかりである。」

と序に記したのは文久三年(一八六三)十一月のことだった。

蚕を育てる棚 エイガの上のマブシの中に繭が見える

繭玉の標本

蚕の餌、桑の葉を集める篭
その横は温度・湿度管理のための火鉢

八郎は、元治元年(一八六四)、朝廷の意向で赦免され島を離れたが、末吉村では八郎の教え通りに養蚕を行ったので「一ヶ年金子一千両余」の利益を上げたという。
【麓】

フルーツのように甘いトマト

キュウリ

甘い甘いプリンスメロン

八丈島の 果物・夏野菜

スイカ・メロン・夏野菜

島においでになった皆様方への質問です。
「八丈島といえば何でしょうか?」

「流人・黄八丈・台風・黒潮・八丈富士・太鼓・玉石垣・明日葉・くさや・・・光るキノコ類・鳥類・シダ植物・・・・」いろいろと答えを思い浮かべますが、実は、夏の果物の代表選手であるスイカやメロンそして以前に紹介したネリ(オクラの仲間)やキュウリ・トマト等の夏野菜がとてもおいしい島です。島外にはほとんど出回らないので、有名ではないかもしれませんが実においしい、知る人ぞ知るそれらの名産地です。

一般にスイカは、一日の昼と夜の温度差がおおきいほどおいしくなるという通説がありますが、ここではそれはあてはまらない。実際、夏の最高温度はなかなか30度以上にはあがりませんし、夜は周りが黒潮で温度は下がりません。では、なぜおいしいのか? それは、

・土壌が火山灰質で、多雨にもかかわらず水はけがとてもよい。

・その土壌には、周りの黒潮からの贈り物、ミネラル類を多量に含む。

・空気がきれいなので、紫外線が強く、これ が果物・野菜を元気に大きくする。そして
・もちろん島の作り手が上手。

これらは、他の夏野菜にもあてはまる、共通のおいしくなる条件です。

島のスイカ・生長中

スイカはあくまで甘く、プリンスメロンなどは、その大きさとバターと蜂蜜を塗ったような、強烈なあまさに驚かれることでしょう。今号が、刊行される頃は、まさに収穫期です。他にもいろいろな種類のメロンや夏野菜がたくさん出まわっているころですので、存分にお試しください。

黒潮の恵みは、ここにもあるのです。そして、元気な食べ物は元気を作ります。
【おいしさにひかれたにわか農夫】

八丈島の観葉植物フェニックス・ロベレニィ

フェニックス・ロベレニィ

Phoenix roebenii o‘Brien 和名:親王椰子 別名:ひめなつめやし

輸出も行われていて世界一の生産量を誇るハチジョウジマのフェニックス・ロベレニィは、シンガポールの蘭の採集家ロベレニィ氏によってラオスで発見された。
イギリスのキュウ植物園のジェームズ・オーブレン氏は、ガーディナーズ・クロカル誌にロベレニィ氏の名をとって1889年10月26日に命名紹介発表したのである。
発見者のロベレニィ氏によればラオスのメコン河の岩角岸に沿って北緯22度の北まで分布しているという(中国・ビルマ・タイ・ラオスの国境メコン河添い)。
日本には明治36年~38年横浜植木株式会社が輸入、八丈島には大正10年(1921)雌木と雄木一対が植えられたのがはじまりである。
その原木は今も中之郷地区新堤横のロベレニィの感謝の碑に植えられており、見ることができる。

ロベレニィの感謝の碑

和名の命名者は元東京帝国大学理学部付属小石川植物園園芸主任、故松崎直枝氏で英名のPigmyDatePalm(ひめなつめやし)を別名にした。良い名前と思う。が、そう呼ぶ人はほとんど無く、もっぱら親王椰子が使われている。
この名前の由来は、皇の位にあった高岳親王が仏法に入り僧空海(弘法大師)の教えを受け、承和4年僧宗叡を伴って唐に渡り、20年の在留の後一大決心をして元慶5年、80歳の高齢もかえりみず天竺歴遊の途中、ロベレニィの原産地ラオスで虎に襲われ亡くなったことからその遺跡を偲んで命名したという。
この椰子は、八丈島の雨と風、光と気温等全ての自然状況に適した、他に類を見ない植物であり、島の経済はもとより島民の健康と自立を支えるものとしてこれからも廃れることはない。                   義

商品:鉢植 切葉
島内のそこここの畑で見ることができる。鉢植えは、エコアグリマート等。

八丈島の植物

2006年9月 秋号 Vol.5

▼この島には黒潮が運ぶ漂着物が沢山、実に色々なものが流れつく。これらにはたいて国籍を推定できる標がある。中国語文字・ハングル・更に南の国の文字、勿論日本語も。▼毎年春と秋に横間ヶ浦海岸の清掃も兼ね十数年前から漂着物を収集・分類・調査しているグループがある。その調査によるとプラスチックと発泡スチロール、つまり化石資源を原料とするごみが8割、ハングルと中国文字が目立ち毎年増加傾向、そして相変わらず大量の漁具ごみも。

▼八丈島は太平洋の十字路。ここには海からの警鐘も良い未来を造るためへの指針も確かにある。どう読みどうするかは私たちだ。

                               【漂着子】

 

2006年12月 新春号 Vol.6

▼現在、周囲約69Kmのこの島には、老若男女約8千8百人の人々が暮している。江戸の末期には、ほぼ同じくらいの人々がすでに暮していたと歴史はいう。国地との交通の手段が限られていたその時代に、この島はそれだけの人々を養う力のある、豊かな島であったことを物語る。

▼四国室戸岬とほぼ同じ緯度にあり、南九州よりは北に位置しながら、まさに黒潮の恵みを受けて夏は涼しく、冬は暖かな亜熱帯性の常緑性広葉樹林帯気候、その気候と島人の英知がもたらす豊かな産物を永く海と山から授かってきた。

▼この八丈島の誇りは、自然の雄大さ、素晴らしさと島に暮す人々の温かさに他ならない。そして、この自然の豊かさが、8千年前の縄文期のその昔から多くの人々を養って今に至ったことも、同時に、次の時代へと引き継ぐための我々が負う責任も忘れてはならない。

【漂着子】

 

2007年2月 陽春号   Vol.7

▼地球誕生は46億年前、その6億年後に海中に生命が、恐竜は2億3千年前、人は5百万年前の誕生とされている。これを判りやすく今までの時間を一日24時にたとえれば恐竜から哺乳時代に移ったのが23時47分8秒、人の出現が23時59分3秒、20世紀の始まりは23時59分59秒99。(2002年 立花 隆氏)

▼化石燃料などから出るCO2の排出が温暖化だけではなく海の酸性化をまねき海の生態系(特に珊瑚)に深刻な影響を与える恐れがあるという。CO2の約1/3を海が吸収し酸性化がすすむのだ。(1月23日・朝日新聞)

▼最近テレビで時計の針が23時55分をさしている画をよく見る。 人類が生存できる時間は、誕生から今までを23時間55分とすれば、あとわずか5分しか残されていないという。

▼太古の昔から地球、とりわけ海からの恵みを八丈島は直接受けてきた島。地球温暖化・海の酸性化・海水温度上昇・大気中CO2等様々な信号もそのまま受けられる島。

【漂着子】

2007年4月 緑輝号  Vol.8

▼  「鳥も通わぬ八丈島」とよく例えられるこの島。しかしこの表現とは逆に実に沢山の種類の鳥達を留鳥としてあるいは渡り鳥として見ることができる。いつもの朝は、今の時期はウグイス、これからホトトギスそしてコジュケイなどの声で朝を迎える。島を訪れたバードウォッチャーのご夫妻は、2日で44種を見ることができたと大喜び。そして外国では評判のフィールドなのだそうで、その訳は①伊豆七島に固有の種が多い-珍種多数②大都市東京からのアクセスが良い-多機会③容易に確認できる-多種多数。 実際にアメリカ・オーストラリア・イギリス・カナダなどからのウォッチャーがこの島を訪れている。
▼3月13日の朝日新聞に「アジアの水鳥の群れ6割が減少・絶滅の危機」というショッキングな見出し。02年の報告との比較では、特にアジアで1200個体群のうち62%が減少あるいは絶滅が危ぶまれているとある。原因は人間による湿地の破壊や環境汚染が主であるが特にアジアの経済成長に伴う埋め立てが影響していそうだ。
▼地球温暖化による自然破壊も重なり、森が、河川の水が、沿岸湿地が、餌が、鳥達への深刻な影響が予測されている。 環境を護るという事はすなわち地球全体の自然の連鎖を護るということの同義語。   

                                【漂着子】

2007年7月 夏号  Vol.9

▼ 6月中旬、新緑の北海道を旅した。車の急ぎ旅でしたが、広大な道東から道北稚内に至る自然は、東に茫洋たるオホーツクと西に新緑の大地、そして大空。これが300Km余続く。他に何も無い。もちろん、村落はあり、そこには人々の生活があり、留まって細かくみれば沢山のことがあるには違いないのだが、この自然そのものがなんとも素晴らしい。

▼「なにもたさない。何も引かない。」というCMがあったのを思い出す。もしかしたら、「観光資源」とかに表現されるものの「本当」はこれなのではないかと「ふ」とおもう。

▼ここ八丈島の魅力は、この豊かな自然と、それにまもられて太古の昔から営々と続いてきた島人の生活そのものに他ならない。山・海・里の自然の美しさを楽しみ、夜は光るキノコの不思議に感嘆し、島酒をそばに八丈太鼓や踊りを体感しながら、島人の話に耳を傾ける。 実際に観光客の皆さまからは、そのような内容の感謝の手紙が届く。そしてそこに共通するキーワードは「癒された」。

▼むやみに島外から異文化になるもの持ちこみ、観光に供するなどは、まさに余興。なぜならば、観光客の皆さまは、「八丈島」を観光にみえるに違いなく、そしてこの島は、その期待に十分応えられる島だからだ。
【感嘆子】

2007年10月 秋号 Vol.10

▼あるTV番組でお笑いタレントの一人が「灯台下暗し-ってどういうことぉ」と訊いていた。 司会者が「灯台は、遠くまでに光を届けることができるが、すぐ下は照らすことはできないので暗いということだよ」と説明していた。即ちあちこち探しても見つからない解決策が、ほんの身近にあること多いのにそれが気付きにくいという喩えである。 同じようなことわざはないかと考えてみた。

▼「となりの芝生は良く見える」はいかがか。自分の庭(島)を正しく評価しないで闇雲に他家の庭(国地)が良く見えてしまう。

▼私達日本とりわけ離島に住む人には厭な言葉「島国根性」。これも島という狭いそして外界から閉ざされた環境に住むものは、その情報や経験が限られていることから独りよがりな判断や行動に落ちいりやすいということか。

▼「井の中の蛙、大海を知らず」というのはどうか。井戸の中に住む蛙はその狭い世界しか知らないので、見識の狭い世間知らずになることの喩えか。 最近は情報入手方法も多岐にわたり交通手段も幾通りもあるので島(国)外の人々との交流の機会も多く、このような言葉は必ずしもあてはまらくなったが、時につけ折につけ心するべきことではある。 同時に、この島(国)にはたとえなんと言われようが誇るべき素晴らしいものが沢山あることを忘れてはならない。   「されど空の高さを知る」「されど空の青さを知る」「されど地の深さを知る」と自信をもって。

【漂着子】

2008年 春号 Vol.11

 ▼本ガイド紙を初めて刊行してから3年目を迎え、今回で11号を数えることとなった。その間、協賛いただいた広告主、記事にするための様々な情報を下さった方、実際に記事を寄稿された方、読者の皆さま方へ2008年の最初の号を刊行するにあたり、深く御礼を申し上げるとともに、これからもかわらぬご支援をお願いいたします。▼本年1月1日の島の人口は男4,329、女4,265の合計8,594名。さて、過去の本島の人口はと調べてみると1868(慶応四)年は、男3,724、女4,403の合計8,127人さらにその時点の流人が218人、今の人口と殆ど変わらない。 しかしその数字をよく見ると、女性の人口が20%程度多いことに気付く。そしてその割合は江戸時代全体に共通している。八丈島は、絹の島。「女護ヶ島」たる由縁か。▼文化・芸能・工芸、様々な技を伝え、塾を開いて学問を教え、この島の発展に果たした1,865名におよぶ流人のこの島への貢献は絶大である。他方、流人も含めそれらを暖かく迎え入れた島人たち。 「おじゃりやれ」の言葉のニュアンスにもあるその気質は、今もそのままに。                      

【漂着子】

2008年4月 緑輝号  Vol.12

▼中国製冷凍のギョーザ事件以降、食料自給率の問題があらためて表面化してきている。きっかけはともかく、日本という国のあり方の根本をなす重要な問題であるとの認識が社会的に高まり、議論が重ねられ、その結果として良い国民意識と施策が生れるならば、将来への大きな資産となるに違いない。▼近年の日本人食生活にひそむ問題からは切り離せない言葉、「フードマイレージ」。 日常の家庭の食卓にのぼる数々のご馳走をその視点から一度見てみたい。ここ八丈島の食卓がこの島の海産物・農産物中心であるならば、それはとてもすばらしいこととあらためて思う。▼「地産地消」、その昔の八丈島はまさにその優等生であったことは間違いなく、そして今もなおその習慣は色濃く残る。地球温暖化防止に少しでも貢献できることもあわせて意識しながら、この島でのその仕組みを皆で守り、足りないところは補い、新鮮な島の野菜や海産物を使ったおいしい料理を、観光においでになる皆様に提供できればと切に願う。

【漂着子】

2008年 夏号 Vol.13

▼「地震雷火事親父」昔から怖いもののランクは、このように決まっていた。13年と半年を経過した阪神・淡路大地震、多くの犠牲者をみて今なおその傷はいえない。2004年12月のスマトラ島沖大地震津波、今年は中国・四川大地震でおおぜいの犠牲者・不明者を悼むまもなく、東北の岩手・宮城内陸地震でまたも多くの犠牲者、むき出しになった山肌を見てこころが痛む。

▼パキスタンやミヤンマーでは、強烈なサイクロンによる被害が甚大、アメリカ南部のハリケーンも年毎に巨大化、台風もまたしかりか。 天変地異がこうも度重なるのは、やはり、地球の温暖化・環境変化にあるのか。原因は、諸説があり定かではないが、今、この地球に生きているわれわれ一人ひとりが、こころしてよい環境を守り続ける、あるいは改善していく努力が大事と思う。

「われわれの生きているこの時代は、未来の子供たちから借りている世界なのです。」

自然と一体化して暮らすオーストラリアの先住民族、アボリジニの言葉である。この言葉を肝に銘じて、立ち木一本の伐採からこころして、未来の子供たち(子孫)には、すばらしい地球環境を返してあげることが、今の世に生きている人々の、借りているものの義務であり責務とも思う。この八丈島のすばらしい自然環境も次の世代、そのまた次の世代に恥ずかしくないように、あなたは自信をもって護れますか。
【漂着子】

2008年10月 秋号 Vol.14

▼伊豆諸島巡見日記「南汎録」には、当時の食べ物がたくさん登場する。まず伊豆半島三崎ではヒラメのなます「雪のように白く味も良かった」、大島ではアシタバ「味がことに勝れよい蔬菜である」や山桜の実。新島ではカツオやアジの干物、さらに式根島ではその肉も味もカツオに似ているカツオドリ、神津島のサザエやホラガイ、トビウオ、松野まつと老ころという珍しいキノコ、式根島ではヤマモモ「はなはだ美味」とある。

▼八丈島といえば、島ではアブキというトコブシにはじまり、大きなウニ「その味は絶佳であった」、カツオの塩辛「味がことに勝れ」シウデという、さらに小島のカブラ。変わったところでは、富士登山の帰り路に捕らえたマムシ「炙って食うとこの上なく旨かった」。 舟の周りには、いま絶滅が危惧されるアホウドリがいて大きな魚は逃げもせず、潜ればすぐ百個のトコブシがとれ、そして青あおと茂る苗田があった。たった170年前のことである。 その地の旬のものをその地の調理法でいただく。いまでは贅沢に聞こえる「地産地消」がちょっと昔の生活そのものだった。

▼いま、この島に地産地消をすすめるために生産者と消費者の一体化を推進するグループが活躍中。毎月かわら版「島の生活ガイド」を発刊し、商品情報やこれらを扱うお店の紹介、朝市開催、農協・漁協だよりなどを提供中、是非ご覧いただきたい。このような地道な活動が、実は山を護り、水を護り、豊かな海を取り戻し、そして人を護る。                                    【漂着子】

 2009年 緑輝号 Vol.15

▼八丈空港で降り立ち「緑の匂いが違う!」と感じてから八年目を迎え、島の生活に順応してしまったのか、当初感じた島のすばらしいところが、時の経過とともにあいまいになってきたような気がしている。自分のこと、あるいは島のことを客観的に見る、長短をしる、鳥瞰図的に見る、やさしいようで難しい。

▼八丈島の良いところは何? その中で暮していると答えがすぐにみつからない。 そこで、今号では、「島外の人から見た八丈島」を特集した。見開きの【八丈島の豊かな緑の資産】とこれからシリーズで掲載する【昔八丈島小話】である。

▼前者は、普段見慣れている、あるいは見過ごしてしまっている自然そのものは、実は八丈島が日本のみならず世界に誇れるすばらしい資産であることを教えられ、また後者は、昔からこの島にえいえいと引き継がれてきた言葉や慣習そのものが、この土地にしかない重要な資産であることに気付かされる。 「われわれが生きているこの時代は、未来の子供たちから借りているもの」だとすれば、これらの資産は、そのまま子供たちへ返さねばならぬ。誰の言葉か忘れてしまったが、

「過去はあたらしく、未来は懐かしい。」

【漂着子】

 2009年 夏 号 Vol.16

▼日本の月探査機「かぐや」は、6月11日午前3時25分、さまざまの成果を残して月面に落下、その役割を終えた。 月の水平線に昇る美しい地球の姿をみて、ほとんどの地球人が感激したに違いない。月面から50~30Kmの近距離軌道からの高解析度カメラに映し出される月面は、細部にわたり鮮明で、高度1万1千メートルほどの月のエベレスト、3千メートルもあるクレーターの側壁など迫力満点の映像に目をみはった。

月は地球の兄弟星といわれ、「46億年間の古文書」であるという。これから「かぐや」の収集した膨大なデータを解析することで地球の歴史がだんだんとひもとかれることになる。

▼1969年7月20日アポロ11号の船長二ール・アームストロングが月に人類最初の一歩をしるした。学生時代に白黒のテレビに映し出されるそのさまを興奮しながら見たのはちょうど40年前のことである。そのあと、有人・無人の様々な月探査計画がいろいろな国の思惑の中、進行している。

▼しかし一方で、月といえば「かぐや姫」の里、ウサギが餅をついているという母と児の空を見上げながらかわす会話やおとぎ話は、ついこの前まであったように思うし、それはそのままであって欲しいと思う。同じく「月」をめでながら酒を酌み交わすこころも一緒に。      【漂着子】

 2010年 緑輝号 Vol.17

▼ 「過去をまもるということは、未来を守るということです。」山奥の村に先祖代々にわたり苦労して切り開いてきた「田んぼ」を、一度都会に出ていた人がその里に戻り、今は亡き父母に変わって米つくりを続けることでまもることを決心した、その人の言葉でした。

「ひとは今まで自然という貯蓄の利子の部分だけをいただいて生きてきた。そして、それで十分であった。 しかし、今の人間は、元本まで手をつけてしまい、それも引き出して生きようとしている。」
北海道の広大な自然をうやまい、神々への感謝の気持ちをこめてその四季のめぐみをいただき、生活してきたアイヌ民族の血を受け継ぐ人が、今の人間の営みや社会を表現した言葉である。

▼自然のめぐみに感謝してこれを破壊することなく、伝統をつちかい、先人の知恵を尊び敬う気持ちは、常に私たちのこころの中にあってほしいとおもう。そして、その気持ちのもとに行動するならば、過去の豊かな生活を損なうことなく、これを守り、そしてそのこころと共に、次の世代を担う未来の子供たちにわたすことができるのだと思う。       【漂着子】

 2010年 夏 号 Vol.18

▼2010年6月13日午後10時51分(日本時間)頃、小惑星探査機「はやぶさ」は、約60億キロ、7年の旅を終えて、オーストラリア南部の上空で大気圏に再突入し、本体はばらばらになって夜空を閃光で照らしながら燃え尽き、その役目を立派に終えた。そして、本体から放出された回収カプセルは、一条の閃光を放ちながら砂漠に落下し、計画通り地球への帰還を果たした。

▼38万キロかなたの小惑星イトカワに着地するなどの数々の科学的成果は、日本の英知のたまものであることは言うまでもなく、この偉業を支えた技術が、いわゆる町工場の熟練の伝統技術や学生達の熱意と工夫であったことを「日本の誇り」としたい。

▼即ち、「はやぶさ」は、日本の伝統・技・英知を結集した母親であり、一生をかけたその死と引きかえに日本のDNAとイトカワから採集したであろう地球誕生49億年の謎を解く鍵を「カプセル」に納め、次世代に伝承するために放出して地球に帰還せしめたように思える。

▼カプセルの落下地点は、現地先住民のアボリジニ―の聖地という。                   【漂着子】

八丈島にお出での観光客の皆さまに向けた八丈島の観光ガイド役・フリーペーパー

8Joるんるんガイドとは

八丈島にお出での観光客の皆さまに向けた八丈島の観光ガイド役・フリーペーパーです。
ほぼ隔月で八丈島の有志・協賛者の皆さまのご協力により出版費用をまかない、記事や写真は完全なボランティアで刊行しています。

このたび(平成19年7月23日)、今まで刊行してきた記事や写真、イラストなどをもとにして、八丈島の「観光情報ポータル」として当サイトを構築し、オープンしました。
このサイトをご覧の皆さまが、これをきっかけにして八丈島に興味を持っていただき、何時の日か、あるいはふたたび、八丈島を訪れていただけましたら本当にうれしく思います。サイトの内容は、随時更新あるいは新しいコンテンツを追加していきますのでどうぞお楽しみにしてください。 そして、ご意見・ご感想もお寄せいただけましたら、誠に幸いです。

八丈島の観光を考える会(HK3
八丈島の観光を発展させるために知恵をだすこと、労力を提供すること、お金を出すことを惜しまない島人の集まりです。会員は、るんるんガイドおよび当サイトに協賛のかたちで広告を掲載することができます。
今後、いろいろなアイデアで、島を訪れる観光客のおもてなしをしていく所存です。
ご意見、ご要望、広告協賛あるいは「読者の声」欄への投稿につきましては、下記にお願いいたします。
100-1401 東京都八丈島八丈町大賀郷930-2  プチホテル満天望 内
八丈島の観光を考える会 会長  黒 坂 英 生


            

 なお、本会は「八丈島観光協会」等の団体、あるいは「八丈町行政」とは一切関係の無いボランティアです。
本サイトに関するお問合せ等は、直接当会までお願いいたします。
 



□るんるんガイド命名の由来

ここ八丈島にはその昔1,865名にも及ぶ沢山の【るにん】がそれぞれいろいろな【荷:に】を背負って流されてきました。 しかし、この島に来て見ると島人の温かいもてなしにすっかりその【に】をおろして気持ちもかろやかに日々を過ごすことができたそうな。 皆さまも「るんるんガイド」あるいはこのサイトの情報を活用していただき、るんるん気分で、存分に八丈島をおたのしみください。
るんるんガイドNEWS
2010年 夏 号 刊行 八丈島の真夏、昼と夜の過ごし方ご案内ー2010年
2010年 緑輝号 刊行 八丈島の自然との会話- インタープリテーション
2009年 夏 号 刊行 抜け船」事件 八丈島の夏’09
2009年 緑輝号 刊行 島外の人が見た八丈島  新シリーズ「昔八丈島小話」開始
2008年 秋 号 刊行 江戸時代末期の八丈島  代官 羽倉簡堂 巡視録
2008年 夏 号 刊行 八丈島の夏 海・山・森
2008年 緑輝号 刊行 八丈島のあたらしい緑「ケンチャ椰子の森」
2008年 春 号 刊行 八丈春の花巡りご案内
2007年 秋 号 刊行 読者の声 と くさや 特集
2007年 夏 号 刊行 真夏の夜の森 光るキノコの森 特集
2007年 緑輝号 刊行 八丈島の森の仲間」コーナー開設「
2007年 陽春号 刊行 るんるんガイドコラム「島声海声」開設 
2007年 新春号 刊行 「八丈八景」「八丈島花事典」「海の仲間」「読者の声」コーナー開設
2006年 秋 号 刊行 「読者の声」欄開設^
2006年 盛夏号 刊行 八丈島内の全海水浴場特集
2006年 初夏号 刊行
2006年 G W号 刊行
2006年 創刊号 刊行 島の協賛者に支えられ八丈島発のフリーペーパー発刊
るんるんガイド刊行の履歴 今までに刊行された紙面は 【PDFのダウンロード】でご覧いただけます。
号 名 発 刊 日 主な見出(記事)
2010年 夏号  平成22年7月25日 むかしみちさんさく
「女護ヶ島」と源為朝
島声海声
特集 八丈島の真夏の過ごし方ご案内
・ポットホールへ行こう
・浜あそび
・夜の不思議の森ー光るキノコ観察
八丈島の花事典   -「ナツエビネ」
八丈島の森の仲間 -「アオバズク」
八丈島の焼酎   -「焼酎のおいしい飲み方ー3」この人に聞こう!  「岩川 晴美さん」
昔八丈島小話   -「あした草」
八丈島のうまいもの  ムロアジ
読者の声
2010年 緑輝号
平成22年4月20日 むかしみちさんさく
「乙千代ヶ浜」命名の由来
島声海声
特集 八丈島の自然と会話する
・ジュラ紀の森 インタープリテーション
八丈島の花事典   -「ハマゴウ」
八丈島の森の仲間 -「ゴイサギ」
八丈島の焼酎   -「単式蒸留」
昔八丈島小話   -「島の女性の服装」この人に聞こう!  「山下 崇さん」
八丈島のうまいもの  シウデ
読者の声
    平成21年7月25日 むかしみちさんさく
「抜け舟」
島声海声
特集 八丈島の夏’09
・八丈島の海水浴場
・夏の夜の不思議「光るキノコの森」
八丈島の花事典   -「サクユリ」
八丈島の森の仲間 -「トラツグミ」
八丈島の焼酎   -「鶏と卵?」」
昔八丈島小話   -「相撲」この人に聞こう!  「沖山敏男さん」
八丈島の伝統技術  スイカ・メロン・夏野菜
読者の声
平成21年4月25日 むかしみちさんさく
「坂本龍馬を斬った男たち 今井信郎」
島声海声
特集「進化する-ジュラ紀の森を案内する」
八丈島の花事典   -「フデリンドウ」
八丈島の森の仲間 -「ヤツガシ」八丈島の焼酎   -「花酵母焼酎話」
新シリーズ 「昔八丈島小話」

この人に聞こう!  「高橋孝三さん」
八丈島の伝統技術  「コダイジイ」と呼ばれた菅野八郎
読者の声

2008年 秋 号 平成20年10月25日 むかしみちさんさく
「江戸時代末期の八丈島」
島声海声
特集「代官 羽倉簡堂のみた八丈島」
八丈島の花事典   -「センブリ」
八丈島の森の仲間 -「オーストンヤマガラ」
八丈島の海の仲間 -「カンパチ」この人に聞こう!  「大沢一勝さん」
八丈島の伝統技術  「黄八丈の染」
読者の声
平成20年7月20日 むかしみちさんさく
「御船と御船預かり」
島声海声
特集「八丈島の夏」 海・山・森
八丈島の花事典   -「クワズイモ」
八丈島の森の仲間 -「ホオジロ」
八丈島の焼酎      「ハナタレはうまい!」この人に聞こう!  「秋田勝司さん」
八丈島の伝統技術  「六方積み」
読者の声
2008年 緑輝号 
Vol.12
[PDFダウンロード]
平成20年4月25日 むかしみちさんさく
「神止山 その命名の由来」
島声海声
八丈島の新しい緑 「ケンチャ椰子の森」
八丈八景 第7回 「大里晩鐘」
八丈花事典    - 「むべ」
八丈島の森の仲間 -「もず」
八丈島の焼酎     「島酒のおいしい飲み方ー八丈流」この人に聞こう! 「大沢 玉政さん」
八丈名産     「ハルトビ」
読者の声
2008年 春号 
Vol.11
[PDFダウンロード]
平成20年2月25日 むかしみちさんさく
「大坂トンネル と 阿坂多一郎」
島声海声「八丈島 春の花巡り」
八丈八景 第6回  「西山暮雪」
八丈花事典     - 「シュンラン」
八丈島の森の仲間 - 「カワラヒワ」
八丈島の焼酎     「焼酎の割り水 軟水それとも硬水」

この人に聞こう! 「思い出の八丈小島」
八丈名産     「黄八丈 永鑑帳と御控え織り」
読者の声

2007年 秋号
Vol.10
平成19年10月15日 むかしみちさんさく
「團伊玖磨さんが愛した八丈島の海と空を訪ねて」
島声海声読者の声特集       「八丈島の自然を体感する」
八丈八景 第5回 「藍ヶ江落雁」
八丈花事典    - 「ナンバンギセル」
八丈島の森の仲間 - 「セイタカシギ」
八丈島の焼酎     「甲類・乙類って何?」
この人に聞こう! 「伝統のクサヤをつくる」
八丈名産 くさや 「その歴史とうまさの秘密」
八丈島のおいしい名産
「クサヤと明日葉のマヨネーズ和え」
平成19年7月25日
むかしみちさんさく
「宇喜多秀家の軌跡」
島声海声真夏の夜 光るキノコの森への誘い
八丈八景 第4回 尾端夜雨
八丈花事典   - 「カキラン」
八丈島の森の仲間 - 「シジュウカラ」
八丈島の焼酎   「島酒 麹菌のお話」

八丈島の海水浴場のご案内
八丈名産     「ネリ」
読者の声

平成19年4月25日 八丈島始祖伝説の系譜 その3
「八十八重姫と古宝丸」
島声海声ジュラ紀の森への誘い
八丈八景 第3回 神湊帰帆
八丈花事典           - エビネ
八丈島の森の仲間 - アオサギ
八丈島の海の仲間 - アオウミガメ
八丈島の焼酎おいしい飲み方

この人に聞こう! 「大里ふるさと村のご接待の皆様」
八丈島の名品   「八丈島の地機とカッペタ織り」
読者の声

平成19年2月15日 八丈島始祖伝説の系譜 その2 「徐福」

島声海声

中之郷散策
八丈八景 第2回 「前崎晴嵐」
八丈花事典           - シマテンナンショウ
八丈島の森の仲間 - カラスバト
八丈島の海の仲間 - レンテンヤッコ
八丈島の焼酎 効能その3

この人に聞こう! 明日葉発祥園 菊池里香さん
八丈名産            明日葉
読者の声

平成18年12月15日 むかしみちさんさく
-源為朝と女護ヶ島伝説ー

島声海声
新春初登山      - 八丈富士
八丈八景 第1回 「大坂夕照」
八丈花事典      - 伊豆の島大文字草
八丈島の海の仲間 - ユウゼン
八丈島の焼酎         効能その2
この人に聞こう! 山案内人 草庵 櫻井 衛さん
八丈島の名品     「黄八丈」呼称の由縁
八丈名産            カブツ
読者の声
平成18年9月15日 むかしみちさんさく
八丈島始祖伝説「タナ婆伝説」ー島声海声末吉をあるく
サーフポイント汐間海岸の紹介
八丈花事典 - ハチジョウコゴメグサ
八丈島の焼酎  効能その1

この人に聞こう! やたけ製菓代表 大沢 力さん
八丈島の名品    フェニックスロベレニー
八丈名産        島唐辛子
読者の声

2006年 盛夏号 
Vol.4
平成18年7月15日 むかしみちさんさく
八丈島はじめて物語「太平洋の十字路」ー海で遊ぶ -海水浴場ガイドー
山で遊ぶ -夜の散策ガイドー
体験ダイビングとスノーケリング
夏を彩る花たち
昆虫採集
八丈島の焼酎 ー明日への活力ー
この人に聞こう! 日の出花壇代表 菊池 義郎さん
イベントカレンダー 他
2006年 初夏号 
Vol.3
平成18年5月15日 むかしみちさんさく
神になった代官 羽倉外記ー海で遊ぶ -体験ダイビングー
山で遊ぶ -バードウォッチングー
八丈ならではの鳥たち・これは見ておこう!
雨でも楽しめる場所
光るキノコ
八丈島の焼酎 ー島酒を引き立てる八丈島のうまい水ー
この人に聞こう! 優婆夷宝明神社 神主 菊池 孝光さん
イベントカレンダー 他
平成18年4月15日 むかしみちさんさく
伝説と歴史の八丈島 「大里を歩く」-海へ行こう!    -海に入って遊ぶー
-海に入らないで遊ぶー
山へ行こう   -樫立・唐滝川と唐滝ー
イイジマムシクイ
唐滝川周辺の植物
海の生き物
八丈島の「島酒」
この人に聞こう!  大興園  菊池 國仁さん
中之郷・足湯 「きらめきの湯」
イベントカレンダー 他
平成18年3月15日 おじゃりやれ八丈島

とりのさえずりと森林浴
花巡り
大島桜
アカコッコ
今が旬 カツオとハマトビウオ
八丈島の焼酎

この人に聞こう!     黄八丈め由工房  山下 誉さん
第40回 八丈島フリージアまつり
イベントカレンダー 他

■新SHOPの紹介

8Jo.Jpでは、八丈島の名店を募集中です。
当サイトに掲載をご希望の皆様は、メール・電話等でご連絡ください。
八丈島のサイバー商店街を発展させましょう!
□新コーナーの紹介
本号より、見開きに「昔八丈島小話」を新シリーズとして連載開始いたしました。
江戸時代、伊豆七島を収める代官と随行者が巡見に訪れており、その日記や挿絵が記録として
残っていますので、その中から、当時の島のようすを現代文にして記載していきます。
どうぞ、お楽しみに。


そのほか、観光客の皆さまを、八丈島の自然・歴史・文化、、、、。
サイバー観光客の皆さまを八丈のいろいろなところをご覧いただくための新コーナーを募集中です。
ご提案をお待ちいたしております。

               
【八丈島の観光を考える会】からのお願い

八丈島の他の地に負けない良さは、「自然」と「島人」です。
このサイトを訪れて、バーチャルに八丈島を体験していただいた皆さま、次は、是非実際に八丈島を訪れて、その良さを体験してください。
そして、その体験を、あるいは、このサイトをお友達、お仲間、会社の同僚、いろいろな方々に教えていただけましたらわれわれのこの上もない幸せです。
同時に、ご意見やご希望、アドバイス、、、、をわれわれにお寄せいただければ本当にうれしく存じます。
八丈島の輪を広げていただくために、このサイトへのリンクはフリーです。
その際には、メール等でご一報いただけましたら幸甚です。
リンク用として次の2種類のバナーを用意させていただきました。
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