2009年 緑輝号
Vol.15



八丈島近代化に貢献した元見廻組隊士
今井 信郎

歴史に「もし……」は禁物ですが、「坂本龍馬が生きていたら、また違った明治維新を迎えていたのではないか……」そう思う人は少なくないのではないでしょうか。しかし、一八六七年(慶応三)十一月十五日夜、京都三条河原町土佐藩邸近くの近江屋に逗留しているところを、見廻組佐々木唯三郎とその配下の者たちにより殺害されました。

 龍馬を斬った男たちの一人今井信郎は、直心影流、講武所師範代を務めた剣の達人です。彼は翌年に始まった戊辰戦争を衝鋒隊副隊長として上州・北信越・会津を転戦、箱館五稜郭で敗れ、榎本武揚らとともに投獄されました。一八七〇年(明治三)静岡県に引き渡され、七二年(明治五)一月特赦により出獄するまで獄中生活を送りました。七五年(明治八)一月静岡県吏となった今井は翌七六年(明治九)伊豆諸島の巡視を命ぜられ、十二月八丈島にやってきました。

 明治維新以来、八丈島は相模府、韮山県、足柄県、静岡県と所属が替わるなかで、新政府の政策が浸透しないまま十年が経とうとしていました。島の陣屋に案内された今井は、うずたかく積まれたままの巣に覆われ、ネズミの巣となった書類の束を見て愕然としますが、落ち込んでいる暇はありませんでした。今井は精力的に島内を歩き回り、島の政治改革と経済再建のために次々と新しい政策を提案をし、実行に移していきます。

 今井が特に力を入れたのは教育でした。封建的な遺風を疑うことなく貧しさに沈んでいる島民を、教育の力で救おうとしたのです。流人平川親義を教師に「夕学館」を開校した末吉地区以外では、多くの学齢児童は家の仕事に追われ、とても学校どころではないというのが実情でした。今井は、そうしたわが子の現状に疑問を持たない保護者を前に、熱く学校の必要性を説きました。また、自ら教壇に立って指導することもありました。静岡県から持ってきた教科書などの教材も各村の学校に分け与えました。


今井が明治7年にもたらしたといわれる教本

 こうして大賀郷小学校の歴史に初代校長の名を刻んだ今井信郎でしたが、七七年(明治十)六月、忽然と島を離れ、西南の役討伐隊を志願しました。途中浜松付近で西郷軍全滅の報に接し、むなしく帰郷しましたが、後年、実は自分の入獄中に助命嘆願をしてくれた西郷の恩に報いるために九州へ向かうつもりだったと語ったそうです。翌七八年、牧之原台地の東端榛原郡初倉村(現在の静岡県島田市)に入植し、茶の栽培を中心とした農業に専心します。やがて村会議員に当選、郡農会長、学務委員、一九〇六から三年間は村長を務め、一九一八年(大正七)六月二十五日、七十七年の波乱の生涯を閉じました。

 今井が静岡県に提出した出張報告『巡島記事』は、今井が帰った翌年東京府に移り、現在は浜松町の東京都公文書館に保存され、活字化されて『伊豆諸島東京移管百年誌』上巻資料編で読むことができます。 
【麓】


開校百年記念碑と現在の子供たち



静岡県島田市初倉にある
屋敷跡の碑

現在の大賀郷小学校
屋上越しに八丈富士が望まれる
 大賀郷地区

散策のあとに美味しいケーキと
サイフォンで入れる珈琲は如何
大里近く横間ヶ浦海岸



八丈島の自然体験プログラム
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