「八景」を愛でる風習は中国からのもので全国各地に古くからあります。
ここ八丈島では、その昔、流人や島役人たちが八丈詩会を作り、
八丈八景を選定しております。
その「八景」を2007年新春号より順次掲載しており、その紹介です。
八丈八景
大坂夕照
前崎晴嵐
神湊帰帆
尾端夜雨
藍ヶ江落雁
西山暮雪
大里晩鐘
名古秋月




カフェ&バー るん

伝統工芸黄八丈め由工房


花卉鉢植 日の出花壇

八丈興発株式会社

株式会社 森秀
大坂夕照


大坂の展望台から沈み行く夕日を見る

傾いた陽は (ゆう)(もや)のなかでオレンジ色の輝きを増し、空と海が溶けてできた巨大な黄色いスクリーンの真ん中を少しずつ成長しながら静かに落ちていく。金色の分けて漁船の影が一つ、八重根港をめざす。太陽の着水かと思われた瞬間、光が陸に向かって走り、ずんずん水の下に引き込まれる。スクリーンは赤みを増し、右側にどっしりと構えていた小島の黒い影が存在を主張し始める。やがて残照が薄れ夜のとばりに包まれたら、街の灯りに新しい星座を探すのもいい。夜更けて中空の月と銀波の交響に耳を傾けるのもいい。風待ちの船団のイルミネーションに華やかな舞台を想像するのも楽しい。


大坂の展望台から八丈富士・小島を眺る

大坂展望台からの眺望

■大賀郷・為朝神社から横間橋、横間洞門を通り逢坂橋を渡って大坂トンネル入口の展望台まで約一・五`bが現在の大坂だが、およそ百年前までは海岸伝いに進んで海寄りの険しい崖をジグザグに登り、為朝が弓矢で開いたという切通しを抜けて往来していた。ここは登龍峠とともに坂上・坂下を結ぶ交通の難所で、汗だくになって登り冷たい汗を背負って下ったのだが、美しい夕焼けに心を奪われ、しばし時の流れを忘れることもあった


横間ヶ浦海岸から大海に沈む夕日

■八丈島は黒潮によって本土と隔てられていたから、独特の文化が育った。様々な事情で配流された人々がここで出会い、文学サロンを作って風雅に心を遊ばせた。仕掛け人は鹿島則文。鹿島明神大宮司の長子で、罪状は水戸一揆を支援した嫌疑を受けた父の身代わりとも、勤王の志士としての活動をめられたからともいわれる。一八六六年(慶応二)島に来てから、『八丈実記』の著者で在島四十年の近藤富蔵、御船預り役服部敬次郎らと意気投合し、八丈詩会を作って八丈八景を撰定した 「八景」をでる風習は室町時代に中国から入った山水画の流行に始まる。以来、近江八景、金沢八景など各地に名所が生まれ、詩画の題材になった。たまたま流刑地で出会った人々が、自らの誇りを取り戻し、生きる支えとするには恰好のテーマであったろう。

横間ヶ浦海岸より小島・夕日を眺める


八重根港から大坂橋を見る

■夕暮れの海、空、雲、山の魅力は変化の妙だ。「大坂の沖や夕日の小島舟〈菊池武豊〉」――金色に輝く海を小島に帰る弧舟のシルエット。「暮れて行く日あし頼みてとどまればまた影もなき大坂の道〈丹宗秀房〉」――夕日に誘われてもの思いにふけっているうちにすっかり暗くなってしまった。「海に映じて翠大坂の風烟晩涼をす。勝景看生孤島のれ。一半残陽を帯ぶ。〈服部弘道〉」――東山が海にえて、海山の翠が溶け合う。大坂に漂う夕霞は涼しさを運んでくる。こんな素晴らしい景色が孤島の一角で見られるなんて!八丈富士の西側が夕焼けに染まっている……。
「大坂」は「逢坂」に通じる。その昔坂上・坂下の男女がこの辺りで逢う瀬を楽しんだとも伝えられるが、幕末の詩人たちの作品に相聞の歌はなかった。
 【麓】


   八重根港越に大坂橋を見る
八丈島の自然体験プログラム
夜の森光るキノコ探検
Go
ジュラ紀の森探検
Go
八丈の山と森を歩く
Go
八丈ブルーと遊ぶ
Go
八丈島の花で遊ぶ
Go




カフェ&バー るん
前崎晴嵐
 

東風(こち)にかすむ八重根の浦なぎて松に残れる波の音かな 則文

  幾日も続いた冷たい北西風が止んで、おだやかな日差しの中を散策にでた。春である。東山にただよう霞のしたに、八重根の海は波静かで、松の梢を渡る風の音が遠い潮騒のように聞こえるばかりだ――。ひょうたんに似た八丈島の、西側のくびれにあたるところが八重根から前崎、横間につづく海岸である。大里陣屋の前から西に向う道を下っていくと目の前に海が開ける。長く海に突き出した岸壁の辺りが八重根、漁港の入口からつづく玉石の海岸が前崎。帆船が年に二回江戸と八丈島とを結んでいたころは、船着き場としてにぎわったところで、老松が生い茂っていたという。

塙則文(後に鹿島神宮大宮司則文)は、水戸浪士の一揆を応援して罪に問われた父親の身代わりとも、また、自身が熱心な勤皇派だったためともいわれるが、一八六六年(慶応二)八丈島に流罪となった。七〇年(明治二)の赦免までに、八丈詩会を組織して八丈八景を選定し、近藤富蔵のために『八丈実記』の序文を書いた。

      夜来の微雨ち晴るるの時
驟暖しゅうだんけんを弄ろうして
    吟歩遅し

 行きて到る前崎春海静かなり     軽波?れんえん頽曦たいぎ?ひた

  「八景」は元来、十一〜二世紀に始まった中国絵画のテーマだから、漢詩にも詠まれた。右の七言絶句は大賀郷宗福寺十八世釈(れい)(ちょう)の作である。

 



八重根港から前崎浜

昨夜からの雨はたちまちあがって、にわかに訪れた暖かさの中に花を()で、詩を口ずさみながらゆく歩みは進まない。やって来た前崎からながめる春の海は静かだ。さざ波は、連なる先に今にも沈もうとしている太陽を浸している。



前崎浜から大海に沈む夕日を見る

 刻々と変わりゆく海と空の風情は、人の心をとらえて、時の流れを忘れさせる。     【麓】



カフェ&バー るん
神湊帰帆

 神湊は、ひょうたん型をした八丈島の北東側のくびれにあたり、漁業の拠点となっているが、かつては西風を避ける官船や廻船が入港する北の湊であった。一六三三年(寛永十)江戸から帰る船が雲霧に覆われた島山を前に方角を見失い、乗組員が一心に神に祈ったところ、雲の切れ間から赤い衣の神女が現れたので、これに力を得て島に漕ぎ寄せることができた。その時から神女が立った山を神止山、港を神湊、乗組員は苗字を沖山に改めたと『八丈実記』にある。


八丈富士から見る神湊港 手前が神止山

 帆船が年に二回江戸と八丈を結んでいた頃、江戸との往復は文字通り命賭けで、船の入港は島の人々にとって大きな喜びであった。家族が無事に戻ってくる、食料品・日用雑貨など島の生活に欠かせない品々や人々がもたらす情報が皆の楽しみであったし、流人には赦免状が届く期待もあった。そんな気持ちを代弁しているのが宗福寺の住職釈賜ゥの七言絶句である。

   

 かいもんたずさえて
 海門手をへて帰船を望み  
      がき ぼんてん ひらめ
 
づ喜ぶ画旗暮天くを。
   い  なか
 かれ水程千里遠しと。 
   
ふうはん           かえ
   
風帆一瞬浪を破つてる。

 



―港のあたりは連れだった島人が江戸から戻る船を眺めながら、まず胸をなで下ろしている。夕暮れの空の下に翻る鮮やかな幟旗を発見したのだ。よかった、よかった。今となっては船旅の長さのことは言うまい。船は帆にいっぱいの風をはらんで、瞬く間に港に入ってきた。―

神港に寄せ来る波の立ち帰る
 舟をうれしと言はぬ人なし
 
          鹿島則文

 「八丈八景」を選定するなど、島の文学サロンの中心にあった鹿島則文は勤皇思想をとがめられて一八六六年(慶応二)に流罪、明治維新の大赦で帰郷した。

 近藤富蔵の「神湊帰帆」図には、倉ノ坂から望む神止山の碑、崖下に漁舟小屋を配したひなびた漁村の向こう、白帆が浮かぶ彼方の水平線上に、御蔵・三宅の島影が見える。【麓】


現在の神湊港 神止山越しに八丈富士

尾端夜雨

 三根の尾端観音堂は正式には遣迎山大悲閣観世音寺といい、流僧顕察が揮毫し近藤富蔵が彫った「遣迎大悲閣」の木額が堂内に掲げられている。島民の信仰厚く、当時は西側の急斜面を田んぼの方から登ったという。今は、神湊へ向かう都道を三根小前の信号の約百b手前で右折、尾崎橋を渡って急な坂を十分ほど登る。堂の創建は不明だが、富蔵時代の建物が一九七五年(昭和五〇)十月の台風で壊れ、その後現在のものが建てられた。


    
           三根・尾端 観音堂

 八丈八景では「夜雨」が主題になっているが、あわせて老松をを詠んだものが多い。鬱蒼たる松が観音霊場にふさわしい幽粋な風情をつし出していたのだろう。


     
           高橋為質の和歌

峯は尾端をかこみ 雲自ずから軽し
  翠焔深き処余清有り
しょう条として一夜聞くを得難し 
 半ば松声に似て半ば雨声



(三原山の峯々が尾端観音堂を取り囲み、ふんわりと雲が浮かんでいる。辺りにかかる青いはいかにも清々しい。尾端の夜雨の風情は格別といわれているが、終夜雨音らしい物音は聞こえない。じっと耳を澄ますとかすかな音が聞こえるけれど、あれは松風の音なのか、夜の雨音なのか)作者の服部弘道は末吉長戸路家から養子に入った御船預かり役で、明治五年(一八七二)の学制施行に際しては、八丈島五邑学区取締に就任した。  

 観音堂の一帯をといった。明治十三年(一八八〇)になって赦免された近藤富蔵は、いったん島を離れたが、父の墓参と熊野詣での旅を終えて帰島、晩年を堂守として過ごした。「鴫山や松より松を吹く風に小雨音添ふ夜半の淋しさ」(富蔵)


鍋島直興の書を近藤富蔵が彫った観自在

 「幾夜降る尾端の雨や」『やたけの寝覚め草』を遺した帰山は、父の討った勢いでその息子までめたため流罪となったのだが、降り止まぬ雨夜の闇の中に我が身の無明を見つめていたのかも知れない。                               【麓】


カフェ&バー るん


カフェ&バー るん
藍ヶ江落雁

  中之郷藍ヶ江は、三原山の溶岩が海岸に及んだところで、八重根・神湊と並んで良港とされた。一八三六(天保七)年、地役人兼御船預り山下平治平為民が廻船の港として開港、一八四四(天保一五)年に幕府から三五七両を借りて改修した。透きとおった水の青さは藍ヶ江の名にふさわしく、「藍ヶ江落雁」として八丈八景に選ばれた。

    
   天然の良港 藍ヶ江

 雁(カリ・カリガネとも)は、カモ目の鳥のうち大形の水鳥マガン・ヒシクイなどの総称。隊列を組んで飛ぶ姿から「雁行」「雁陣」などの語がある。北半球北部で繁殖し、日本には冬鳥として飛来する。魂を運ぶ者として、また「雁が音」は遠来の客の訪れのしるしとして古くから歌に詠まれてきた。

 藍ヶ江の磯辺に落つる雁がねは
     などて都を捨てて来ぬらん  
                      飯島
忠亨

 飯島忠亨は、酒席での殺人で流罪になったが、流僧良善の導きで念仏門に入った。文武にで、大賀郷の書記に取り立てられたが、医術で生計を立てたという。八丈までやって来た雁の姿に、江戸を追われた我が身の上を重ねたのだろうか。

  藍ヶ江や田面に落つる雁の文  

                      帰山

 
  あの山越しに落雁を

藍ヶ江の北に続く台地は、かつて島第一の水田地帯であった。刈り入れの済んだ田に下り立った雁は、故郷からの便りを運んできたのだ。作者は『やたけの寝覚め草』の著作がある鶴窓帰山こと山口五郎左衛門。謀殺された父の仇討ちで八丈島流罪となった。

  月は照る
  雁行影窓に入る簾
を捲いて望見す
  藍ヶ江に落つるを

 秋宵又是千金の値 
  為に愛す風光暁
スに到る

 月明かりに雁の列をなして飛ぶ姿が窓に映る/簾を巻揚げて遠く藍ヶ江に下りる雁を望み見る/春宵一刻値千金というが、秋の夜もまた千金の値がある/だからこの風景が好きだ。眺め入っている間に灯火も明け方の光に薄れていく

 七言絶句の作者賜ゥは宗福寺十八世宗哲。俗名は源為興、為朝の末裔という。

  「八景」は中国湖南省の瀟湘八景にならって特定の地域の景勝地八カ所を選んだもの。近江八景、金沢八景が有名だが、江戸時代末期に流人と島のインテリがこれにならって八丈八景を選定し、詩歌俳諧の題材とした。                          【麓】

     


     
     今では足湯に浸かりながら落雁を



西山暮

 冷たい西風が弱まり、雲間を漏れる光が力強さを増してくると、そろそろ季節が動く。が、一足飛びに春の到来というわけにはいかない。伊豆諸島の南を低気圧が通過するとき、寒気が本州の南岸までおりていると、南の島にも雪が降る。八丈島測候所が観測を始めた一九〇七年以降、二a以上の積雪を観測したのは十回。今は車社会だし、露地栽培の観葉植物の凍害もあって、ただ珍しがってはいられないが、雪は古来より文芸のテーマだった。

 西山は、形が富士山に似ているので「八丈富士」と呼ばれる。海抜八五四bは伊豆諸島の最高峰。慶長一〇年(一六〇五)の噴火で、三根の田畑・家屋に被害があったことが記録に見える。

 「西山の峯にはわけて夕暮れの入り日の影ににほふ白雪/釈俊童」

雪を降らせた嵐が去って、明るんできた西空の光を映す八丈富士である。

「峯に尾に雪降り暮れし西山の麓に残る松の群立ち/釈堯海」

雪の山麓に取り残された松の木立が淋しそう。

「西の山野飼ひの牛の跡たへて家路やいづれ雪の夕ぐれ/塙則文」

薄暮の山道は牛の踏み跡も雪に覆われて、帰路を見失いそうだ。則文は、水戸一揆に荷担した父の鹿島大明神宮司大隅守則孝の身代わりで流罪になったという。「八丈八景」を選定した、八丈詩会の主宰者。望郷の思いを率直に歌った作品もある。



「富士の嶺にまがへる山の雪見れば思ひぞつもる夕ぐれの空/飯嶌忠亨」

作者は隠居の身になってから酒興で人を殺め
たために遠島に処せられた。来島後一念発起、念仏門に入った。書・剣・槍・柔・拳の達人で、在島中は大賀郷村書記を務め、医術で生計を立てたという。  

 「西山座して見る草庵の中/白雪翩翩暮空/猶愛す寒光沈酔の後瑶池一曲興何ぞ窮まらん/釈喝三」

八丈学の提唱者葛西重雄氏は七五調のリズムに乗せてこんな風に訳した。
「草ぶき屋根の居ながらに、西山見ればひらひらと、雪
る暮れの空、雪見の酒も快く、雪を肴に酔いしれて、胸に奏でるセレナーデ。」(『註解八丈遺文』)
喝三こと祖要は会津の出身で、芝の臨済宗東禅寺役僧。天保二年(一八三一)年に遠島になり、明治維新で赦免されたが島に残り、明治二二年(一八八九)年に没した。

「一景は西山にあり雪の朝/柳和」 「八景」としては「暮雪」を詠まねばならぬのだが、実景としては夜来の嵐が去った翌朝の、日を受けて輝く八丈富士がすばらしい。(藤九郎)


八丈富士鉢巻道路冠

カフェ&バー るん


当時 宗福寺があった場所
大銀杏の木は何度も落雷を受けている。



     現在の宗福寺


  現在の長楽寺(中之郷)
大里晩鐘

微妙に形の異なる丸石を巧みに積み重ねた玉石垣は、その陰影に富んだ風情を愛でに訪れる人が多い。
歴史民俗資料館から大里に続く旧道の途中に「大里晩鐘」の解説があって蜂須賀文敏の短歌

「夕暮れの秋のあはれに添ひてまた入相告ぐる大里の鐘」

が紹介されている。「秋の夕暮れ」はしみじみとした情緒を呼び起こすものとして古来名歌が多いが、流刑地で思う「あはれ」は
(ひとしお)であったろう。
作者は天保十四年(一八四三)五月に流され、明治二年(一八六九)五月赦免になった上州・上中居村無宿・寅蔵。
博えきの科(とが)で送られたのだが、一我の号で八丈島詩会に参加した。
在島二十七年、島に初めて暦算の法を伝えた人物としても名を残した。

 現在の大里は、陣屋跡、優婆夷宝明神社、玉石垣が残るばかりだが、かつては宗福寺・長楽寺の二寺があって、島の政治文化の中心地だった。「大里晩鐘」は当時の面影を偲ぶよすがとなった。  

  「白露秋光大里の郷  西風檻に入つて桂花香し  鐘声吹き送る斜陽の後 玉笛家を離れて一に断腸」

―秋の日に露のまぶしい大里のあたりをゆけば、西からの風が欄干を越えて香しい木犀の香りを運んでくる。日が暮れると入相の鐘の音が響き、どこからともなく聞こえてくる美しい笛の音が、遠く家を離れて異境にある身には、まったくはらわたのちぎれるほど悲しく心にしみるのだ。

―作者釈喝三こと祖要は、江戸・芝・臨済宗東禅寺の役僧だったが天保二年(一八三一)流罪。大賀郷村書記、宗福寺執事などを務めるかたわら、『野吟荒集』『八丈地名旧跡名所集』を著した。明治元年赦免になるも島に残り、明治二十二年(一八八九)五月に没した。

     
       大里玉石垣越しに八丈小島

「大里の鐘身にむや夕あらし 帰山」

季節の変わり目に、しばしば天候が急変する。雨交じりの風は強さを増し、南原千畳岩の海岸に大きな波が打ち寄せている。何となく胸騒ぎがする光景だが、いつものように入相の鐘を聞くと心が落ち着く。

――鶴窓帰山こと山口五郎左衛門は、伊豆君沢郡小坂村の出身で『やたけの寝覚草』の作者。父の仇討ちが咎められ天保十年(一八三九)九月に流され、明治元年に赦免となった。

 西に小島を望む小径に夕闇が迫る。ひとしきりにぎやかだった小鳥たちのさえずりが静まると、遠い潮騒に混じって入相の鐘が聞こえたような気がした。(麓)



【参考】
近藤富蔵『八丈実記』第二巻(緑地社)
葛西重雄『註解八丈遺文』(東京都教育庁八丈出張所)
吉田貫三・葛西重雄『八丈島流人銘々伝』(第一書房)


 名古の滝


    洞輪沢漁港
名古秋月

「月」は昔から詩歌に詠まれてきた。「八景」の中でも中国は湖、近江は寺の秋の月が、「八丈八景」では「名古秋月」として末吉・の月が賞された。名古は洞輪沢一帯のことで、断崖の途中から流れ落ちる滝と、ひなびた入江の風情が詩人の心を引きつけた。現在は漁港を中心に温泉やサーフィンを楽しむ人々が集まる。

 「滝水のの流れの末の洞輪沢
かげさへ高き秋の夜の月 飯島忠亨」

作者は文武兼ね備えたインテリだったが、酒の勢いで人をめ、弘化四年(一八四七)流罪になった。二十年に及ぶ島の暮らしの中で出会った八丈詩会は、どれほど彼の心を慰めたことであろう。

 江戸深川、臨済宗の僧は天保九年(一八三八)に流罪。それから二十八年後に来た鹿島則文提唱の八丈八景は、流僧の創作意欲を大いに刺激したに違いない。

「瀑布 岩をくだ山更に幽たり。疎きょう薄暮林丘に到る。 じょうがの冷影円円の鏡 遙かに憶ふ洞庭赤壁の秋。」

滝が岩を砕かんばかりに流れ落ちるさまは、深山幽谷の趣だ。杖
を頼りに暮れてゆく丘に登れば、美人が住むという月は冷たい光を放ち、まんまるの鏡のよう。
唐の杜甫・李白が詠じた洞庭湖、北宋の蘇軾が遊んだ赤壁の秋色もこのようなものだったのではなかろうか。

――月に光る水面が大空と解け合い、兵どもの夢を飲み込んだ故地の風情は、生きることの意味を問わずにはおかない。洞庭湖のほとりに戦火を避け、老いと病に苦しみながら家族の便りを待つ杜甫。赤壁の地で
羽化登仙の境地を歌いつつ、表面は絶えず変化しながら本質は変わらない水と月の姿に宇宙の真理を見た蘇軾。戒を破って島流しとなった作者は、先人の境地に自らを重ねてわずかの安らぎを得ようとしたのだろうか


服部弘道は御船預かりの一人で、幕末から明治にかけて島の近代化に貢献した有力者。

海雲飛び尽して露華浮かぶ。風は送る金波、万里流る。瀑布千尋、洞沢に懸かる。天開いて明鏡一輪の秋。」

海に懸かった雲が消え、露に濡れた花が浮かんでいるようだ。風に吹かれて遙か遠くから金波銀波が運ばれてくるように見える。洞輪沢の崖には千尋の滝が懸かり、空はどこまでも澄み渡って一輪の明月が天下の秋を謳歌している――
と名古秋月の美しさを称えている。



 秋の陽を浴びて洞輪沢を見下ろす崖の上に立てば、右手に伸びる小岩戸ヶ鼻の彼方に青ヶ島が浮かぶ。
崖の下には六十余年前出撃に備えた震洋特別攻撃隊の三層の壕が静かに眠る。

 「秋ふけて人め枯れゆく名古の浦月よりほかに訪ふ人もなし 近藤守真

みはらしの湯に身を横たえ、秋の月を眺めるのも一興かもしれない。
                【麓】


 「八丈八景」は、流人鹿島則文が中国の瀟湘八景、日本の近江八景などにならい、八丈島の詩歌・絵画の題材として選定した。島の文化人や流人が集い、これをテーマに漢詩・和歌・発句を詠んだ。